小谷野敦『もてない男ー恋愛論を超えて』(ちくま新書 1998)を一気に読む。
恋愛をすることが当たり前になった時代の中で、改めて恋愛を問い直そうとするものである。確かに現在の日本では、中学生くらいになると恋愛(孤独からの逃避とも言えるが)が関心事の第一に君臨し、そこから外れてしまう者は不安を感じ、そこから目を背けようとするものには「真面目」のレッテルが貼られてします。著者のいう「恋愛イデオロギー」が蔓延しているといっても過言ではない。
「ストーカー」という言葉の定義は明確ではない。狭くは、面識もない相手を追い回す者と定義できるが、広くは、面識のある相手を追い回してもストーカーと呼ばれるらしい。前者が異常だとしても、後者はぜんたい「罪」なのか。そのことを私は考えた。
結論はこうである。恋愛は誰にでもできる、という「嘘」が、恋愛のできない者を焦慮に追い立て、ストーカーを生むのである。だから、恋愛を礼賛する者たちに、ストーカーを非難する資格はない。「恋愛は愚劣だからやめておけ」と言える者にして初めてストーカーを非難する資格があるのである。
著者は童貞であることの不安や自慰行為について社会学的な立場だけでなく、文学研究の観点からも綿密な分析を加えている。森鴎外の『青年』や田山花袋はつとに有名であるが、同じ森鴎外の『雁』や二葉亭の作品に中に、自慰は不貞としてしまった「近代」を捉え直そうとする著者の観点は面白かった。恋愛小説は世の中に数多いが、恋愛という「常識」を不安だと考える立場から文学を眺め直すと、また違った文学の流れが見えてきそうだ。