本間三郎『物質の究極は何だろうか』(講談社現代新書 1989)を読む。
少し古い本であるが、基本的な知識の確認に役立った。原子の大きさをを東京ドームにたとえると、陽子や中性子は卵くらいの大きさであり、電子は米粒の大きさであるという。高校時代の化学の授業の板書での、バスケットボール大の陽子や、野球ボール大の電子のイメージが強かったので、改めて素粒子のスケールに驚かされる。また逆にいかに黒板に白墨というスタイルが科学の驚異を捨象してしまうのかとつくづく実感せざるを得なかった。閑話休題、原子内部の「真空」や、陽子内部のクオーク・ニュートリノといった「微小」な単位を追い求める実験が、ビッグバンやブラックホールといった「無限」なものの解明につながるというのは、わかっていたことであるが改めて興味深い。展開上、デモクリトスのアトム論にこだわり過ぎていて少々大意をつかみにくいが、反粒子や反物質といった「無」が現代物理学の大きな焦点であるというのは面白かった。あとがきで著者は以下のように結論付ける。
われわれはわれわれのまわりをとりまく自然界という「有」の世界の中に永遠不変な究極像を求めてきた。しかし、われわれの自然界は究極的には「無」が自分自身の力によって「無」からつくり上げ発展させたものであるという考えに到達してしまった。とすると、自然界という「有」は、「無」のあらわれの一つの形態であり、あり方にすぎないということになってしまう。そして「無」こそ、時間や空間を超越した存在であり、これらすべてを生み出した、いうならば本書の初めで述べた意味での「神」と呼んでよいものとなるのである。