月別アーカイブ: 2001年10月

救援連絡センターHPより

救援連絡センターという弁護士事務所のホームページにいい文章が載っていた。転載してみたい。

私は、1990年代の初頭から中盤にかけて早稲田大学の学生だった。入学当時はバブル経済の末期に当たるが、誰も今の不況が到来するとは夢に も思っていなかった。フリーターという言葉が当たり前のように定着し、その日暮らしでもなんとかなるような気がしていた。社会全体が浮ついていたという感 があった。多くの学生は「大学に入って、学問を究めるぞ」とも思っていなかった。学生生活の中心はサークルやその他自主的な活動であった。

早稲田大学に数多くあるサークルの部室は、キャンパス内建物の地下にあったり、ラウンジや学生会館の中にあった。地下部室は現在、大学当局に よって封鎖され、立ち入りできなくなってしまっているが、それはほぼすべての地下に存在し、まるで迷路のような空間を形成していた。何年前あるいは10年 以上前に貼られたり書かれたと思われる各種ビラや落書きの洪水、昼でも薄暗い廊下、ヒンヤリと、そして少し湿った空気が漂う、特殊な空間だった。建物の上 では、大学が決めた要項、時間割りに則って退屈な授業が行なわれているのに比べて、圧倒的な存在感があった。「すごいところだな」と思ったのをよく覚えて いる。そしてさらに驚いたのは、そこがもともと部室として大学から与えられたものではなく、倉庫やゼミ室であったところを60年代頃から学生が占拠した場 所だったということである。以来、当局との力関係の緊張感の中で維持されてきた空間だったのである。ヨーロッパなどで、自分たちの生きる空間を自分たちで 創り出すために行なわれているいわゆるスクワッティング(空き家占拠)に通じるものを感じる。

今の日本の社会状況の中で、国家権力の手がストレートに及ばない、自律した領域はますます狭められている。それは単に空間的な問題だけではな い。個人の生き死にや、内面までが管理の対象とされている。権力の側からすれば、それだけ余裕がなくなってきているということなのだろう。そんな中で、こ れまで大学という場は、「学の独立」「学問の自由」という美名のもとで、一定は自律した領域として存在してきた。社会からも「学生さんだから」という目 で、便宜をはかられたり大目に見られたりしてきたのである。しかし、バブル経済崩壊と関連しているのだろうか、社会が閉塞感を強める中で、大学という場も 変わりつつある。最近では、東京大学駒場寮に明け渡しの強制執行、早稲田大学では既存のサークルスペースの使用停止と新学生会館への強制移転という事態が 進行している。

今回、大学当局が踏み込んできた背景には、一つには当局の側に余裕がなくなってきていること、もう一つには「もうそろそろ手を下しても大丈夫 だろう」という自信があったと考えられる。そして当局は、大学としての生き残りをかけて本気でやってきた。それに対抗する側が圧倒的に押され気味である。 どうしたら、すぐにでなくても事態が打開できるのだろうか。

学生たちの多くは四年プラスマイナスアルファで関わりをたつが、当局はずっと存在し続けるわけで、大学という場所に対するモチベーションは当 局のほうが断然強い。そんな力関係の中で、学生たちが本当の意味で当局に「勝つ」には、自分たちが作り上げてきた「自律した空間」が社会的にどう意義があ るかを検証した上で、どのように社会ときり結んでいくかという問題意識が大切ではないだろうか。また、大学という場を離れた私にとっては、ある種特権的な 場所だったとは言え、少なくともあの地下は、現在の主流の文化(そしてその裏にある価値観)に対する対抗的な意味を持っていた。そこで培われたものを、実 際の社会の中でどう実現していくかが、より困難ではありそうな今後の課題である。(9月30日)

今日の夕刊より

今日の夕刊で自治労本部の脱税容疑が報道された。関連会社を使っての共済事業の運営で得た金は使途不明になっているというものだ。自治労などの労働組合は「人格なき社団」に当たり、組合員から集めた組合費などの収入は非課税だが、収益事業は課税対象で申告義務があるのだ。学生時代に友人と自治労本部に就職して、自治労本部内で戦闘的な組合を作ろうと冗談で語っていたことをふと思い出してしまった。しかしこのような脱税は今後増えていくことが予想される。小泉内閣は「聖域なき構造改革」を掲げて、石原行政改革担当大臣先頭に、これまでの行政の外郭団体や特殊法人を原則独立・民営化させていくことを第一に掲げている。その過程で収支についても公と民のあいまいな部分が出てくるであろう。そのためには正確な監査が欠かせないであろう。

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□ 第百五十三回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説

『図解日本版ビッグバン』

今井澄(キヨシ)『図解日本版ビッグバン』(東洋経済)を読む。
97年に橋龍内閣が金融での改革を筆頭に、財政・行政・経済構造・社会保障の5つの分野で「規制緩和」を掲げ、4年間計画でその推進の旗を振ったが、その成果はどうだったのだろうか。97年の橋龍政権後、教育改革を加えた小渕内閣、景気回復を是とした森内閣、そして行政改革がすべての構造改革の起爆剤だと位置付ける小泉内閣と自民党政権が一貫して続いたが、マスコミレベルでは、「小泉ブーム」の影に隠れ、上記の橋龍改革の方向性の検証がにぶいような気がする。

確かに4・5年前の山一証券や興銀、北海道拓殖銀行の倒産のショックは過去のものになり、当時予想された金融不安は合併や金融持株会社の設立などによって一応避けられている。また省庁再編に伴う弊害は今のところ露呈していない。船出が心配された金融監督庁むしろ再編とは無関係であった警察庁や外務省で不祥事が多発している。MOF担や消費税率、急激な円高等々の問題もここしばらく報道されていない。というか新聞の一面はアフガンへの空爆で持ち切りである。

一見金融・行政改革の面ではうまくいっているように見えるが、財政や社会保障といった将来生まれてくる子供や、弱者にしわ寄せが来ている。郵貯の財投問題もマスコミでは相変わらず、高祖議員の個人的問題にすり替えられてしまった。また医療費負担の増大や介護保険なども、一つ一つ見ていけば憤懣やるかたないものであるのにあれよあれよと過ぎ去っていった。近所の郵便局はどうなるの? 年金ってもらえるの? 私もあと十年ちょいで介護保険を払うがサービスは受けられるの? 80年代まで誰しもが疑わなかった疑問に今誰も明確に答えることができないのが現状である。ここまで庶民に生活不安を与えておいて、この国はなぜ持ちこたえているのだろう。大局的に見るに、全ては「グローバルスタンダード」という錦の旗のもと、国際的な競争力の育成と弱者の切り捨てである。そしてこの国の大半の庶民は「弱者」なのである。企業自体は発展しようと、そこで働くサラリーマンはどんどん切り捨てられていくのが現実である。

55年体制の頃は与野党で様々な課題に対してゆっくりと衝突していたのが、細川政権以降一気に早くなった気がするのは私だけではあるまい。これに加えて教育界での「規制緩和」、憲法改革、国旗国家法案、日米ガイドラインの改定、果ては個人情報をないがしろにする組織的犯罪対策法の成立、一方で公開されるべき権力の情報は確守する個人情報保護法案がまかり通るなど、新自由主義的な、保守的な、というか中曽根的な、いやいやリベラル的な路線が……。

すでに私の頭では97年以降の国会政治の流れをまとめることができない。どこを切り口に視座を据えればよいのだろうか。少し冷静になって物事を捉えていくことが肝要であるが、新聞・テレビ・ラジオに週刊誌、月刊誌まで追っていったら情報に溺れてしまう。情報を少し遮断するか、ものすごい勢いで情報を分析していくしかあるまい。今のような中途半端が良くない。しかし客観的にニュースを捕捉できない理由がまだある。

現在のアメリカのテロ報復に追随する日本政府を支持する世論の形成に、ここ半年のイチローや新庄の活躍が本当に大きいと感じる。今年の春先から私たち日本人は毎日のようにイチローの活躍に一喜一憂した。新庄がお世話になっているニューヨークメッツになにかしらの恩に似た感情を日本人は少なからず抱いている。おそらくイチローが今年これほど(首位打者と盗塁王の二冠)活躍しなければ、自衛隊派遣という事態にまで話が一気に展開することはなかったであろう。話はテロに反対するか否かではなく、イチローを応援するか否かである。またかつて安保闘争が激しかった頃、長島茂雄をして「社会党の天下になれば野球ができなくなる」と読売の渡辺オーナーは言わせたそうだが、この枠組みは変わっていない。9月11日にニューヨークの貿易センターに旅客機が突っ込んむのと機を合わせるかのように、長島巨人がヤクルトに3連勝し、日本人の団塊世代の象徴である長島茂雄に一気にスポットが当てられた。政治とスポーツの関係については、テレビが普及し始めた力道山の頃から指摘されている。その因果を探っていけばいくらでも関係性は論じられるだろうが、ここしばらくのスポーツ報道にはすこし気を使う必要がありそうだ。今回の戦争は長引くことが予想される。湾岸戦争と異なり、歯切れの良い解決はないであろう。大リーグがかつてないほど日本人にとって身近なものとなった今、日米のパートナーシップの絆にベースボールが利用される可能性は高い。今秋巨人の松井や、ヤクルトの石井の動向が注目されるが、戦争と切り離して応援することは難しい。

徒然なるままに書き連ねてきたが、私の頭の混乱と不活性化が伺えただろうか。

『恐るべき女子高校』

太田政巳『恐るべき女子高校:東京成徳短大付属高校の現実』(三一書房 1987)を読む。
マスプロ教育の実態や帝京グループとの裏の密約などが暴露的に書かれている。あまりお勧めしたくない本であった。