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「豊かな人間性」

「豊かな人間性」という題目を与えられて、私はすぐに「感情豊かな心優しい人間」といった金八先生や灰谷健次郎的な暖かい世界を思い浮かべてしまう。おそらく日本人の大半が私と同じようなイメージを想起するであろう。しかし現在求められる読書教育はそのような固定化されたイメージを脱却し、壊していくようなもっと根源的なものである。

東京新聞2002年8月17日の夕刊に掲載されたコラム「玉手箱」の一文を紹介したい。

W杯サッカーで全日本を率いたトルシエ監督が面白い日本論を語っていた。『道路を日本人が横断しようとするとき、車が全く来なくても信号が赤だとだれも渡ろうとしない。こんな精神構造では真の国際化はできないし、サッカーも世界の頂点に立つのは難しい』」「日本人はなぜか法律の前で思考を停止する。赤だと止まり、青だと進む。赤で渡るのは“みんなで渡る”時だけ。」「江戸時代から日本は「子曰(のたまわ)く」の暗記教育が全盛で、戦後も自分の頭で考える教育がなおざりにされてきた。自分の行動は自分で考えたい。(史)

日本人の詰め込み教育を批判したありきたりな文章であるが、私はここに求められる読書教育の原点があると考える。真の「豊かな人間性」とは暗記に強いことでも、計算に強いことでもない。あくまで多様な社会の中で、自ら情報を取捨選択し、自ら判断し、自ら行動することである。戦後の学校教育は長い間、行き過ぎた検定教科書等によって「厳選」された情報のみを生徒に与え、チャート式の授業によって「正しい判断」を教員が与え、進路指導や生徒指導においては「あるべき生徒像」が象徴的に示された。しかしこのように過保護に生徒を育てること自体が破綻を来したのだ。コピー機や携帯電話、パソコン等情報を得るツールは20年前と比べてもはるかに充実してきた。しかし一方で情報の過多が主体的判断の欠如を生み出していることはマクルーハン等の社会学の分野で分析されている。

90年代にオウム真理教事件が世間を騒がせたが、これをオウム真理教固有の事件と見るならば、単なるカルト集団の問題に片付けられてしまう。しかしなぜ多くの若者がオウム真理教に入ってしまったのかと社会的な視点で眺めてみると、そこには正答にただうなずくだけの詰め込みの教育の弊害が見て取れるだろう。自ら考え判断するという人間として当然の主体性が欠けてしまっているのだ。

私達はこれまで読書というと文章理解、小説の味読といった国語教育の一環としてしか捉えてこなかった。つまりこれまでの学校教育の中で補助的、補完的なものと位置付けてきた。しかし、クラッシェンの「自由読書」にも展開されているように、読書はテレビ以上に作文の能力を向上させ、作文は深い思索と問題解決能力を増進させることが調査の上でも明らかなった。今後の読書教育は授業の補完としてではなく、人間の主体的判断力や行動力を育てる第一義的なものとして実践していく必要がある。

『読書はパワー』

聖学院大学での学校図書館司書教諭講習の「読書と豊かな人間性」の講義で課題に指定された本、スティーブン・クラッシェン『読書はパワー』(金の星社1996)を読んだ。
“free voluntary Reading”
クラッシェン氏は語彙レベルや内容にとらわれず、生徒が自由に読みたい本ム漫画本、ティーロマンスを含むーに没頭する「自発的自由読書」を提言している。そして多く読めば読むほど、直接的な国語指導以上に、読解、文体、語彙、綴り、文法の実力がつくことを明らかにしている。またそうした読書環境を支える出版環境、学校設備が豊かさが、読書資料を入手を容易にし、リテラシーはさらに発達することも検証されている。そして楽しい読書こそが更なる読書への興味を沸き立たせる唯一の方法だと述べる。

確かに私自身の経験を鑑みるに指示されて読んだ本ほど印象は薄く、つまらないものであった。むしろ気の赴くままに推理小説、バイクの歴史、古典文学、社会問題、恋愛小説とジャンルを問わず自由に読んた本の方が印象が強い。そして軽い本を読んだという経験がさらに難しい本の関心へとつながっていったことも確かである。教員は教科書に書かれている評価の定まった本を薦めてしまいがちであるが、それ以上に生徒の自由な読書環境を創ることに専念した方がよいことをこの本は教えてくれる。

読書と豊かな人間性レポート

読書と豊かな人間性レポート

本日の東京新聞の朝刊の特集記事(裏面を参照)を紹介したい。この中で、東京新聞論説委員である塚田博康氏は戦争の反省に立って、そして学習そのものの根幹は読書にあり、読書によって物事を理解し、思考し、議論をすることの大切さを強調している。
確かに「子どもの読書活動の推進に関する法律」の制定に見られるように、学校教育現場では現在読書の意義が強調されている。司書教諭の必置など子どもに読書する機会を増やすための推進体制、広報活動、財政上の措置など確実に進んできている。
しかし、このような文科省による政策はしばしば現場の意向を越えて強制力を持って施行されてきたことを思い返す必要があるのではないか。例えば奉仕活動(ボランティア)の意義を生徒に強調することはいいことであるが、それが一度文科省の政策に乗った途端、内申書への記述事項になり、そして授業の単位に組み込まれ、最後には強制といった経緯をたどってきた。また同様に総合的学習時間や日の丸君が代、強制クラブ活動なども当初の思惑を大きく外れてしまった。
大切なことはまず何よりも現場の責任者である教員が読書を楽しむことではないか。授業も部活動も同様であるが、まず教員が楽しみ、そしてその楽しみを生徒に伝えてみたいという人間としての素直な感動が原点にならなければならない。そうした楽しみのないところで、いくら読書の利点が強調されたところで、真の「人格形成」にはつながらないであろう。
私自身夏休みに入り、2日に1冊は本を読んでおり、今読書の面白さを堪能している。現在は寝る前に田辺聖子訳の源氏物語の世界に浸っており、俗世の煩わしさを少しでも忘れることができる読書の時間が楽しい。2学期に入ったら授業の中で源氏のあわれの世界観に少しでも触れてみたい。

読書と豊かな人間性レポート

読書と豊かな人間性レポート
今日の授業を受けながら、私は何とはなしに、学生時分に卒業論文で研究した文学者中野重治のことを思い出していた。読書、思想、戦争……。
中野重治は戦前治安維持法容疑で、2年以上も獄中生活を強いられた作家である。その彼が刑務所から妻であるまさのに宛てた手紙の一部少々長いが引用したい。

いつだったか出来るだけ書物を読むようにということを書いたかと覚えている。読書ということは非常に大切なことだ。「自分は書物から学んだ」と言った作家や、「自分は美術館で会得した」といった偉い画家等もある。(中略)私はお前さんのしきりに読書することをのぞむが、しかしたくさん読んで少なく考えるよりは、少なく読んで多く考える方がいいと思う。ダーウィンの自叙伝の中で、「読んだり見たりしたことを、かつて考えたこと、また将来考えるであろうことに直接結びつけるようにし、このクセを五か年間の航海中続けた」という意味のことを書いていた。見聞したことを他のことに結びつけて考えるということ、これが中々よいことなのだ。このクセがつけば、たとえば何かの事務的な報告書を調べていて、それとは全く別種のことについてのステキな思いつきを思いついたり、どうしても分からなかったことがフイと何のゾーサもなく分かったりする(中略)そういう風に、本を読むなら読みなさい。

中野重治は獄中に入ってから超人なみの読書をこなした。そして当時の政府に都合の悪いことが隠ぺいされた新聞・雑誌の文章から、的確に真実を類推していった。獄中にいながらにして、当時の大政翼賛会下の新聞記事から戦争遂行へ向かう雰囲気、侵略戦争の枠組みについて分析を加えていた。つまり誰しもが理解出来る程度の文章の裏の裏まで読むことの重要性を説いたのだ。
坂本一郎氏の論文の中で、「包括的な生活指導」として多くの本の紹介がなされているが、しかしそれを消化するだけの指導で終わってしまってはいけないのではないか。
確かに今後有事の際情報統制がなされるにしても、過去の大戦のような統制が徹底するとは思えない。しかしいざというときの判断力は確保しておきたい。そのためには普段から多くの本に触れ、様々な情報を整理・分析し、まとめていく力を養う中で、それとは全く逆にわずかな情報から真実を掴んでいく想像力を培う指導が求められるのである。
文学者であり、熱心な読書家であった中野重治が、「少なく読んで多く考える」ということを強調した意味を今週ゆっくりと考えてみたい。

「学校図書館メディアの構成」

今日の聖学院大学での「学校図書館メディアの構成」の授業の中で、日本十進分類法の成立について少し勉強した。
日本十進分類法とは図書館にある「0、総記」「1、哲学」……「9、文学」というあの並びのことだ。なぜ哲学から始まり、歴史、社会科学、自然科学、工学、産業と続き、芸術、言語と最後に文学が来るのか不思議に思っていたが、それは人間の学問に対する関心の順に並んでいるんだということだ。哲学から始まるというところで妙に納得してしまった。