平野文『お見合い相手は魚河岸のプリンス』(日本放送出版協会 1993)を読む。
著者は声優として活躍され、『うる星やつら』のラムちゃん役を演じている。本作はタイトルにある通り、移転前の築地市場で働く専務とのお見合いのエピソードが綴られている。あまりに個人的な内容ばかりだったので、さらっと読み流した。80年代後半には、千軒以上の仲卸の店がひしめき合っていたという事実が一番興味深かった。
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『会えないときこそきれいでいよう』
古内東子『会えないときこそきれいでいよう』(幻冬舎 1998)を卒読する。
著者は1972年生まれのシンガーソングライターである。名前は聞いたことがあるような気がするが、実際にはほとんど知らない方である。構成作家がいるので、ほとんどは編集者の手によるものであろうか、ちょっとまとまりすぎな感じの構成が気になった。
ラジオが友達だったというエピソードなど、同世代がということで共感を読んだ。ラジオを通して、自分自身の内側から湧き出る思いなど、自分たちより下の世代にはない感覚である。また、現在から見ると極めて昭和的な感覚で育った団塊ジュニア世代は、90年代以降は急に価値観が大きく揺らいだ20代を過ごすことになった。経済成長著しい中、古い価値観の中で育ちながら、バブルが弾け、新しい価値観の世の中を生きることになった団塊ジュニア世代の悲哀といったものすら感じてしまう。
母がいないと何もできない父。そんな父を立て、支えている母を見ると、いいなあと思ってしまう。たてえ自分が仕事をしていたとしても、好きな男性のいちばんの理解者であり陰で支える女でありたい。女とはそういうものぞ、と考えているところがどこかにある。
なんて古風な、日本女性的な発想なんだろうと思う。でもそう思っている自分を、否定するつもりもないし、特別だとも思っていない。実際にそうするかどうかは別にしても、日本の女性である以上、私のような
『瞬間の記憶』
林京子『瞬間の記憶』(新日本出版社 1992)を読む。
著者は2017年に87歳で亡くなっている。長崎での被曝体験を元に数多くの小説を発表され、『祭りの場』で、第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞を受賞している。
この作品は小説ではなく、1977年から92年にかけて新聞や雑誌『世界』や『群像』『新潮』などに発表したエッセーがまとめられている。被曝体験よりも、1981年の東京新聞に掲載された次の一節が印象に残った。
(シンポジウムに参加して)印象深かったのは、選択の情報を用意しながら、一元化が計れる時代でもある、という危険性を指摘した発言である。豊富に選択の材料を用意しながら、心理的にマスへの操作があり得るのではないか。目的をもった情報のなかで選択を強いられ、無意識のうちに集団化している-。情報の受け手である私たちが、最近特に感じていた情報の傾向化なので、怖い指摘だった。この怖さは、無個性時代といわれながら、やはり群れたがる、個性への疑問体と思う。個性派の代表のようにいわれるタケノ子族にしても、あるものから選んでいるだけで、選ぶ個々に、独創性はない。
さらに集団化することで、個人は没個性的になり、逆に、集団としての特色を生み出していく。屈するつもりのない個が集団に抱き込まれて、目的をもった個性になって動き出す。選ぶ目を鍛えねば、また知らぬ間に統制されたマスに巻き込まれてしまう。
『男と女のすれ違いはすべて言葉で起こっている』
バーバラ・アニス+ジュリー・バーロウ『男と女のすれ違いはすべて言葉で起こっている』(主婦の友社 2003)を読む。『話を聞かない男、地図が読めない女』と同じような内容で、具体的な場面で男女の違いを説明している。男女とも100%男性、100%女性を想定して書かれており、いささかステレオタイプだが、読み物としては面白かった。
議論で一番大事な点はというお題に対して、男性は「それは、事実、数字、念入りな理論だよ」と答える。一方女性は「それは、個人の体験、他人の体験でしょ」と答える。商品の広告なども男性向けはスペックが重視され、女性は体験談が重視されるなどの違いに表れている。
『活断層』
金子史朗『活断層:地震の謎を探る』(講談社現代新書 1979)を読む。
著者は東京文理大学の大学院地学科を卒業され、高校教諭を経て科学ジャーナリストになった方で、地震の専門家ではない。現在では地震はプレートの動きによって発生するものだと当たり前のように考えられているが、著者は活断層の動きと地震の関連について、丁寧にゼロから論じている。
