夏季講習が終わって最近はかなりほっとしている。この時期にたくさん本を読もうと思っている。昨日は内田康夫の『横浜殺人事件』を読んだ。
普段推理小説など読む暇がないので、ベッドに横になりながら幸せを噛みしめながら読んだ。
「読書」カテゴリーアーカイブ
『ビートたけしの過激発想の構造』
高澤秀次『ビートたけしの過激発想の構造』(KKベストブック 1985)を読んだ。
高澤秀次氏は最近保守系の雑誌で発言をしている評論家である。1985年刊行のこの『ビート~』が彼のデビュー作であるのだが、実際は「ビートたけし」を題材に借りた彼自身の社会評論である。高澤氏は最近、西部邁氏と組んで歴史論争などを行っているが、この本においても彼の「選民意識」は突出している。例えば以下のような内容である。
たけしは、高度成長によって金持ちと貧乏人の見分けがつきにくくなったからといって“庶民の暮らし”が楽になったわけではないことを鋭くも見抜いていた。また中流幻想によって、貧乏人の大半がフツウのせいかつができるようになったとしても、金持ちと貧乏人の基本的な対立関係が解消したわけではないことも直感していた。そこで攻撃開始だ。大衆が中流に”格上げ”されたからといって、ブスやカッペがどさくさにまぎれて巧みに変身できるなんて思ったら、そいつあ甘いぜ! 一方あの時期に差別撤廃、弱者救済を叫んでいたヒューマニストたちは、逆にそれを叫ぶことによって、市民の中流幻想に裏付けられた気まぐれな平等意識を強めていただけである。中流の幻想を一皮むけば、相も変わらぬ貧乏人やブスやカッペがまぎれもなく存在することから目をそむけていたのである。
この文章を読んで、私なんかは「ではお前は一体何者だ」と疑問を感じざるを得ないのだが、高澤氏はビートたけしの影に隠れることでうまく責任主体から逃げている。右寄りの評論家の間接的な「選民意識」というものは保田輿十郎から小林よしのりまで変わらないスタイルなのか。
『合格に直結する新聞の見方・読み方』
昨日、『合格に直結する新聞の見方・読み方』(加藤まさを・学研)を読んだ。
つまらない内容だ。小論文の本質が分かっていない。
私にとって小論文とはノンセクト系のアジビラを指すのであって、大衆が読んで納得し、大衆に行動を提起するものこそが小論文なのであって、それ以外は単なる自慰行為である。いくら高尚な思想を披露しようと、大衆へ分かりやすく自ら感じる社会・経済・学校への疑問をストレートに訴え行動を促していくもの以外は、私は認めない。
現在3年生の小論の授業でも主張の無い論には×を付けている。
『働くということ』
現在黒井千次『働くということ』(講談社現代新書 1982)を読んでいるが、学生時代の勤労観と就職後の現状のギャップの大きさに黒井氏も驚いたとあった。確かにこのギャップはさまざまな面でストレスを生むものであるが、そこで変に「馴れて」しまうのはいけない。このギャップを真摯に見つめていくことが大切だ。黒井氏も富士重工に15年勤めた後、『時間』という傑作を生み出している。
『ワープロが社会を変える』
「最初のページ」にあった盗聴法案反対のバーナーを外しました。昨日ウインドウズで見ると差別的な表現が含まれていたので。そのバーナーはウインドウズ用にくるくる回るよう作られており、マックでは固定されていたので分からなかった。
田中良太『ワープロが社会を変える』(中公新書 1991)を読んだ。ワープロの発達によって企業内で文書作成の流れがボトムアップから、トップダウンへ変わり、それに伴って企業の経営スタイルも変わったという指摘が面白かった。
昨日久しぶりに神田の古本屋街に行った。代ゼミと駿台の夏季講習のパンフレットを手にしながら、三省堂で参考書を探していたら、周りの受験生の視線が厳しかった。おそらく「こいつは何浪してんだろう」という疑問と同情のあらわれだろう。
