『ビートたけしの過激発想の構造』

高澤秀次『ビートたけしの過激発想の構造』(KKベストブック 1985)を読んだ。
高澤秀次氏は最近保守系の雑誌で発言をしている評論家である。1985年刊行のこの『ビート~』が彼のデビュー作であるのだが、実際は「ビートたけし」を題材に借りた彼自身の社会評論である。高澤氏は最近、西部邁氏と組んで歴史論争などを行っているが、この本においても彼の「選民意識」は突出している。例えば以下のような内容である。

たけしは、高度成長によって金持ちと貧乏人の見分けがつきにくくなったからといって“庶民の暮らし”が楽になったわけではないことを鋭くも見抜いていた。また中流幻想によって、貧乏人の大半がフツウのせいかつができるようになったとしても、金持ちと貧乏人の基本的な対立関係が解消したわけではないことも直感していた。そこで攻撃開始だ。大衆が中流に”格上げ”されたからといって、ブスやカッペがどさくさにまぎれて巧みに変身できるなんて思ったら、そいつあ甘いぜ! 一方あの時期に差別撤廃、弱者救済を叫んでいたヒューマニストたちは、逆にそれを叫ぶことによって、市民の中流幻想に裏付けられた気まぐれな平等意識を強めていただけである。中流の幻想を一皮むけば、相も変わらぬ貧乏人やブスやカッペがまぎれもなく存在することから目をそむけていたのである。

この文章を読んで、私なんかは「ではお前は一体何者だ」と疑問を感じざるを得ないのだが、高澤氏はビートたけしの影に隠れることでうまく責任主体から逃げている。右寄りの評論家の間接的な「選民意識」というものは保田輿十郎から小林よしのりまで変わらないスタイルなのか。

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