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『ニッポンの子育て』

井上きみどり『ニッポンの子育て』(集英社文庫 2004)を読む。
『子供なんか大キライ!』という漫画の連載を持つ漫画家の著者が、SM女王や、十代夫婦、子タレなど様々な母親の家を訪ねて、ニッポンの子育ての実状に迫る。他に、韓国人夫婦や心障児の子育て、北海道・沖縄の子育て、受刑者の子育てなど、かなり極端な子育てを取り上げているが、そのどれもが普通の子育てであり、子どもとの接し方に大きな違いはない。
最後に著者は次のように語る。

印象的だったのは取材依頼すると全員が開口一番こう言ったことだ。「別にうちは普通ですよ」そうなのだ。一見、珍しく見える家庭の子育てに実は「普通」なところが多く、普通そうに見える家庭の子育てがどこか変わっていたのは、意外な発見だった。つまり、どの家庭も自分の家庭と同じで、どの家庭も自分の家庭と違っているところがあるのだ。この発見こそが、この本のテーマである。

『エッチ産業の経済学』

岩永文夫『エッチ産業の経済学』(インデックスコミュニケーションズ 2008)を読む。
エッチな写真やイラストは一切なく、「ポン引き」と「客引き」の違いや、フーゾク産業に対する警察の締め付け、デリヘルの発展など、フーゾクに纏わる蘊蓄が並べられている。
著者は他に『フーゾクの経済学』や『フーゾク 儲けのからくり』『フーゾク資本論』といった類似の著書があり、おそらくは同じような内容なのであろう。

『グランド・フィナーレ』

グランド・フィナーレ

第132回芥川賞受賞作、阿部和重『グランド・フィナーレ』(講談社 2005)を読む。
表題作も含め、神町という平凡な田舎町を舞台にした4編が収録されている。作者自身が山形県東根市神町という小さな町の出身であり、自身の故郷である神町と、東京との心理的な距離が作品のモチーフとなっている。

『マリー・キュリーが考えたこと』

昨日の高木氏の文章が印象に残ったため、本棚をひっくり返して高木氏の本を漁ってみた。
すると、高木仁三郎『マリー・キュリーが考えたこと』(岩波ジュニア新書 1992)が見つかったので手に取ってみた。
高木氏とマリー・キュリーがヒロシマ・ナガサキについて語り合う章立てに見られるように、ラジウムを発見したマリー・キュリーの偉人伝というよりも、高木氏の自説−何事に対しても疑う姿勢−が前面に出ている。特にマリー・キュリーと同じ時代に同じ国で生まれたローザ・ルクセンブルクと重ねて描いている点が印象に残った。
また、最近ニュースで「ベクレル」という単位を聞くが、これもキュリー夫妻とともにノーベル物理学賞を受賞したアンリ・ベクレルというフランスの物理学者の名前に由来するということを初めて知った。

「古い時代に始末が付けられるか?」

本棚を整理していたら、本の山の底から、フォーラム90’s編集『月刊フォーラム』(社会評論社 1995年12月号・通巻64号)という学生時代に購読していた雑誌が顔をのぞかせた。
しばし立ち読みをしていたところ、当時原子力資料室を運営していた高木仁三郎氏の「古い時代に始末が付けられるか?」と題した文章が目に留まった。その中で、高木氏は次のように述べる。

(ヨーロッパは90年代以降、脱原発に傾いており、日本も大規模な原発の新規増設は見送っている。一方でプルトニウム利用や、日本のアジアへ原発輸出などの問題も起きている現状の紹介)
この状況をまとめると、ひとつの時代の終わりにきている状況ははっきりと見えていて、われわれはその状況をつくり出すのにある程度貢献してきたと言ってもよいのではないかと思う。ところが、なかなか、新しい時代が見えない。(中略)問題は、この時代の終わらせ方なのである。世界は、400もの原子炉とそれと同じくらいの核施設(軍事・民事)をどう解体処分できるのか。原発からでてくる、何十万トンという使用済み燃料(その中に含まれている放射能)を一体どこに処分できるのか。解体核兵器からの核物質はどうか。これらをすべて大事故につながらないように始末できるだけのエネルギーと技術と工業と、そして何より技術者を世界は備えているのか。もっと大きいのは、核権力を中心に強大に築き上げられてしまった官産軍学のコングロマリットとその下で長年にわたって人間を虜にしてしまった冷戦型思考方法がなかなか解体できないこと(フランスが核実験を諦めきれないことに見られるように)である。
この問題は、ひとり核の問題ではなく、政治、思想、社会、文化のすべての面で言えるのではないかと思う。今の日本の政治・運動状況を見ても、古いものの終わりは見えたが、それに本当に始末を付けて新しいものに移行する、始末の付け方が誰にも見えていないし、そうした問題意識を持って本当に努力している人は実に少ないと思う。この点で多くの人に注意を喚起したい。

16年前の文章であるが、現在の東日本大震災以降の原発事故を予見したような内容である。「原発事故は100万年に1回」という原子力を推進する側の宣伝に見事にだまされ続けた国民、そして私自身の姿が見えてくる。高木氏が最後に述べる、「この問題は、ひとり核の問題ではなく、政治、思想、社会、文化のすべての面で言えるのではないかと思う」という一節が特に印象に残る。