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『Twitter社会論』

津田大介『Twitter社会論:新たなリアルタイム・ウェブの潮流』(洋泉社 2009)を読む。
Twitterを

ツイッターが今後社会を、世界を変えていくのか。それは誰にもわからない。そもそもインターネットがどれだけ世の中を変えたのかという話もある。ただ、今現在、ツイッターというプラットフォームの上で同時多発的に起きていることを目の当たりにしたとき、そこに『世の中が動く」ダイナミズムがあるように思えてならないのだ。それは、筆者が社会に出る直前の大学生時代にインターネットに触れた「ネット第1世代」であることも多分に影響しているようにも思える。90年代半ばに感じた「ネットが持つ無限の可能性」を、今再びある種のノスタルジーも含めて、ツイッターに仮託しているのかもしれない。

社会なんてなかなか簡単に変わるものじゃない。変えるには、個人個人がリスクとコストを取って実際の社会で何かしら動く必要があるからだ。変わらないことに絶望していろいろとあきらめてしまった人もたくさんいるだろう。それでも人々が動くための一歩目を踏み出すツールとして、ツイッターは間違いなく優秀だ。何をあきらめてしまった人が、ツイッターを使うことで「再起動」できれば、少しずつ世の中は良い方向に動いていく。そんな希望を持ちたくなる、得体の知れない力をツイッターは持っている。

『そして俺は途方に暮れる』

女による女のための第2回「R‐18文学賞」読者賞受賞作、渡辺やよい『そして俺は途方に暮れる』(2004 双葉社)を読む。

女性向けの官能小説であり、過激なセックスシーンが続く。しかし、男性目線のエロ小説と異なり女性視点で書かれているためか、過激ではあるが恋愛における心模様がベースになっている。印象に残ったシーンを引用してみたい。自分が満たされ愛されている確認事項としてのセックスを蔑ろにする男性への恨みつらみが述べられ、女性の怖さを感じる表現が続く。

 わたしは、暗い部屋の中にしばらくぼんやり立っていた。脚が震えてぺったりと部屋の真ん中に座り込んだ。心臓のばくばくいう音と自分のふうふういう荒い息が聞こえる。
「あああああああああ」
自分が号泣していると気が付いたのは随分たってからだ。あああ、寂しい寂しい寂しい。私のぽっかり空いたおまんこを埋めてくれるおちんちんがもうない。苦しい苦しい。誰が満たしてくれる。私を飢えさせ私を濡らしわたしをイカせてわたしをこんなふうに咆哮させるのはあの男しかいない。
そうだ、殺しておけば良かった。こんなすさまじい空漠が待っていると知っていたら、彼を殺しておけば良かった。そうして彼の肉が少しずつ腐るにまかせ、そのそばで思い切りオナニーするのだ。もう男はどこにも行かない。わたしの悦楽を見届けてくれる。やがて骨になり、どこかに飛び散ってしまって完全に彼の肉体が失せたら、わたしも死ぬのだ。そうだそうすれば良かった。

『尋ね人の時間』

 第99回芥川賞受賞作、新井満『尋ね人の時間』(文藝春秋 1988)を読む。
 表題作の他、『水母』という表題作の前段の話も収録されている。途中空想シーンが多数挿入されており、分かりにくい話であった。「イミフ」な宣伝文句が良くも悪くも作品世界を的確に表現していた。

 都市生活者の含羞にふれる細やかな感受性、また現代人の虚無的状況からの回生をねがうメッセージをたずさえ現代日本文学に新生面をひらく。

『対論』

 野坂昭如・五木寛之『対論』(1973 講談社文庫)を読み返す。
 文庫本の最後のページに、かつて実家の最寄り駅の近くにあった「ニューサンクス」という古本屋の値段の紙片が貼ってあった。今から40年前の本であるが、古本として購入したのも20年以上前の高校時代である。
 当時売れっ子作家であった野坂昭如氏と五木寛之氏の両直木賞作家同士が、「青春」「家庭」「服装」「金銭」といった12のテーマで自由に語り合う対談集である。特に「酒場」というテーマの対談が印象に残ったので引用してみたい。新宿や中野界隈で飲んだくれていた経験のある両者が、いつのまにか変遷してしまった酒場について論を交わす。

野坂:ただ今の若い連中、酒場で連帯を求めてんだが、ひたすら酒を求めてんだが知らないけど、理論から与えられるものに風俗的に身を任せるのに慣れていて、ある目的を持って酒場には来ないみたいなところがある。(中略)
五木:ところが、業界の再編成が進められて以来、そういった(大騒ぎするような)場がなくなっているだろ。僕らの頃は放歌高吟する場があったもの。今は一つには店も悪い。室内が、白いのがやたらに多くてロココ風のスナックじゃあね。
野坂:早慶戦の後で新宿にみんな集まっている。あれを見ていると、ぼく等の時には、それがいいとか悪いとかじゃ全くなくて、酒の飲めない奴もその日は飲むものだと思い込んでいる。ともかく飲んで反吐をはくわ、変な酔っぱらい方するわ、コマ劇場の前の水の中に飛び込む様なことをして、いわば若気の至りを方々でやっていた。今見ていると、かつて皆こういう風にやっていたからしかたなくやっているんだというみたいな印象が強い。「都の西北」唱っていても、もともと「都の西北」はそんなグループの象徴の歌でもなくなっているし、ギャアギャア騒ぎながらデモ風にスクラムくんではしゃいでいるけど、それも何だか空しい感じがしてしようがない。活気がないんだ。
五木:活気がない。
野坂:(中略)飲屋だとかも昔だと学割だとか、いつまでに払うとかあったけど、今はそういう場所もない。そういう意味で場所がなくなったから彼等がそうなっているのか、それとも彼らは最早そういう場を求めたくないのか。彼等はお酒に酔わなくてもすむんじゃないのか。車なら車で楽しめればそれでいい。ハモることの楽しさで十分に酔いしれることが出来れば酒なんか必要としない訳だ。五木の言う発想というのはぼくにはよく分かるけれども、今の延長の中でそこに加わるともう少し実利的なことがあるんじゃないかとか、あるいは女が簡単に引っかかるんじゃないかとか、例えばひたすら汚ないところでいぎたなく酔い痴れるという発想に、それほど今の若者達は憧れがないんじゃないかと思う。
五木:それはいくらそういう店を造ったからといって、お互いに水虫を移し合ったり、かいせんを掻き合ったりすることはやらないだろうな。だけど一つには、やはりそういう面白さを教えなきゃいけないんじゃないかという気もする。それにしても最近は、ただただ酒をくらって発散するというだけの、目的のない行為を嫌がるんじゃないだろうか。
野坂:まあ、目的というか、かくあるべき自分の姿を想定してことをやっている分には安心出来るけども、そうじゃないところで独り時間を過すということに慣れていないということだ。
五木:溺れることがないような気がするな。割合みんな冷静になって。つまり、魔に憑かれたように、あるいは何かに追い立てられるように、ただただそこに逃げ込んだりすることがないんじゃないか。(中略)

 この文章が気になった理由は、ちょうど先月のTBSラジオの討論番組「文化系トークラジオLife」のテーマが「夜遊び」というものであり、40年前のこの対談とほとんど同じ内容が語られていたからだ。ラジオの方は、司会の速水健朗氏を中心に、夜遊びの文化的な意義や、夜遊びの場の規定性に始まり、企業文化やネット社会論、都市論にまで話が広がっていった。その中で、

『エクセルで成績処理「図解」基本技集』

 大渕健二『エクセルで成績処理「図解」基本技集』(2005 有限会社ラピュータ)を読む。
 基本的なVLOOKUP関数やCOUNTIF関数など初歩的な内容が分かりやすく書かれていた。大半は分かっていることばかりであったが、入力規則やグラフの縦軸横軸など、あまり使わない機能についても知ることができてよかった。