読書」カテゴリーアーカイブ

『齋藤孝のざっくり!日本史』

zakkurinihonnsi

齋藤隆『齋藤孝のざっくり!日本史:「すごいよ!ポイント」で本当の面白さが見えてくる』(祥伝社 2007)を読む。
一問一答式に歴史用語を暗記するのではなく、話のネタにできるほどに、歴史の文脈を見つけて語ることができることが本当の歴史の見方だという。また、まずざっくりと大枠をつかむこと。そしてそれを3つのキーポイントで説明できるように理解することが大事だと述べる。

これまで年号ごとに地名や人物名、史料の中身を覚え、次の展開の事件や人物名に繋げていくことが日本史の勉強だと思い込んできた。しかし、斎藤氏は「廃藩置県」や「大化の改新」「三世一身の法」の中身よりも、それが歴史的にどういう意味を持ち、「現在」にまで繋がってきているかをざっくりと大胆に説明している。著者の勢いに押され、つい「なるほど」とうなづいてしまうことがいくつかあった。

『[マンガ]日本の歴史がわかる本』

歴史3

昨日に続いて、小和田哲男監修、小杉あきら画『[マンガ]日本の歴史がわかる本:【幕末・維新〜現代】篇』(三笠書房 1999)を読む。
1853年のペリーの浦賀沖来航から現代までの150年間の流れが分かりやすくまとめられている。子ども向けの学習漫画ではなく、大人向けに政治の裏側や背景をきちんと説明しているので大変分りやすかった。特に何度覚えても忘れてしまう幕末の流れや、自由民権運動の対立などがすーっと頭に入ってきた。
紙幅の限られた中で、反戦運動や労働運動にも触れられており、何度も読み返したい本であった。
最後に、監修担当の小和田氏は次のようにまとめる。

 よく、「歴史の流れ」というが、歴史はなにも自然に流れるわけではない。むしろ、どのように流すか、歴史のまっただ中にいる人によって考えられ、流されてきたという側面を見ないわけにはいかないように思われる。
 ひるがえって、いま私たちは、政治に対してなんとなく無力感をもってしまっている。それは「私一人ぐらいが何をしても無駄」という思いがあるからである。しかし歴史は意外と、そうした力のない人々がなんとなく力を合わせて動かしてきたのである。
 本書からそのあたりの「歴史の流れ」を読み取っていただければ幸いである。

小和田氏は、有名人物や事件の名前、年号を知ることではなく、名もない農民や市民、労働者、学生の思いがやがてはおおきなうねりとなって歴史を作ってきたと述べる。歴史を学ぶ本当の意味は、「歴史の流れ」を肌身に感じることで、政治や経済に対するちょっとした思いを持つことなのである。学校の試験で点数にはならないかもしれないが、ちょっとしたキッカケやちょっとした見方を学ぶことに意義を見いだすことが大事である。

『[マンガ]日本の歴史がわかる本』

本日、大学通信教育の3回目の試験を受けてきた。
西洋史は17世紀のオランダ経済と18世紀のイギリス経済の比較、経済学史はリカードの労働価値説と、差額地代論、比較生産費説の説明であった。
今回はきちんと項目ごとにノートを作って試験に備えたが、直前の勉強が捗らず、何となるだろうと不遜な態度で臨むことになってしまった。
試験は残り2科目、東洋史と日本史を残すのみである。レポートもそれぞれ2本ずつ提出せねばならない。
受かる受からないという狭い料簡ではなく、自分で決めたことなので自分で納得した形で締めくくりたいと思う。

index1

早速、日本史から丁寧に復習したいと思い、勉強のキッカケになればと、一冊のマンガを手に取ってみた。
小和田哲男監修、小杉あきら画『[マンガ]日本の歴史がわかる本:【室町・戦国〜江戸時代】編』(三笠書房 1999)を読んだ。
応仁の乱から江戸の天保の改革までの400年間の歴史が一冊の文庫本にまとめられている。大変大雑把なのだが、返って歴史の流れが掴みやすく、今の私にぴったりの内容であった。

『世界の中の日本』

18670215

司馬遼太郎、ドナルド・キーン対談集『世界の中の日本:16世紀まで遡って見る』(中央公論社 1992)を読む。
ページをパラパラとめくっていたら、「シーボルト」や「ギルダー」という言葉が目に入ったので、西洋史の勉強の一環として手に取ってみた。
歴史作家の司馬遼太郎氏と、江戸文学研究家のドナルド・キーン氏が、江戸時代から明治時代にかけての言葉や文学、宗教、思想、芸術などについて自由奔放に語っている。両氏とも勉強家なので、対談といえどもそのまま一冊の文化論になるほどまとまった内容となっている。西洋における「絶対的」ものを日本人がどう理解してきたかという話が特に興味深かった。

私たち現代人は、江戸時代というと格式や鎖国、封建制でガチガチに固められた否定的な側面を思い浮かべてしまう。しかし、江戸期の日本は当時世界でも類を見ないほどの識字率を誇り、庶民でも読み書き算盤を習い、本を読む習慣がある一流の教育国であった。司馬氏は、二宮尊徳や石田梅岩といった心学者に倣い、頑張って自分の生活を向上させようという勤勉の精神や自立の精神があったと指摘する。さらに、勤勉に一所懸命に働けば何とかなるというプロテスタントに似た考えがあったから明治を可能にしたと述べる。

『権利のための闘争』

イェーリング『権利のための闘争』(日本評論社 1978)を20年ぶりに手に取ってみた。
明々後日に1週間「延期」された西洋史の試験が控えている。10月試験の範囲は、30年戦争からウィーン体制までの200年間の政治史である。名誉革命やフランス革命における用語を、試験中に困らないように頭に詰め込んでいる。ふと、アメリカ独立戦争やフランス革命以降の近代法がどのような結実を得たのかと思い、本棚から引っ張り出してきた。
学生時代に大学近くの古本屋で購入した本で、ぷ〜んとして古本の匂いと「寅書房 ¥300」というラベルが懐かしい。
しかし、20年前はきちんと読み通したのだろうか。読んだつもりで終わったのだろうか。序文を数ページ読んだだけで「お腹いっぱい」となった。
悔しかったので、印象に残った第1章の「法の起源」の冒頭部分を引用してみたい。

 法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり——しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう——、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。
 世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規はまず、これを否定する者の手から奪いとられねばならなかった。国民の権利であれ、個人の権利であれ、およそいっさいの権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかるはかりをもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり、剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、そのはかりをあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。
 法とは不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。法の生命の全体を一望のもとに見渡せば、われわれの眼前には、すべての国民の休むことのない闘争と奮闘の情景がくりひろげられている。その光景は、すべての国民が経済的な、および精神的な生産の分野でくりひろげているものと同じものである。自分の権利を主張しなければならない立場に立たされた者は、だれしもこの国民的作業に参加し、それぞれのもつ小さな力を、この世での法理念の実現にふりむけるのである。