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『本居宣長」

羽賀登『本居宣長:人と歴史・日本 22』(清水書院 1972)を読む。
江戸中期の国学者本居宣長について、著作の言葉の端々を拾い集め、人となりを丁寧に説明している。本居宣長というと、古事記や源氏物語などの生粋の日本の文化を研究している文学者というイメージが強かった。しかし、実際は極めて「原理主義」的な人物で、中国伝来の仏教や儒教を徹底して排撃し、天照大神由来の日本神道の示す情の世界に帰るべきだとの主張を、生涯に亘って繰り返している。

『万葉考』や『国意考』を著した賀茂真淵に師事し、直接に著作についての指導を受けている。一方、時代は少しずれるが、柳澤吉保の儒臣となり、孔子や孟子などの古典研究に勤しんだ荻生徂徠への舌鋒は鋭い。天下の制度を漢風に変質させたと、大化の改新にも懐疑的な見解を示している。また、貨幣経済は「世上困窮の基」であるとし、農本主義的な理想主義者でもあったようだ。

また、ややこしいことに、徳川幕府を支える朱子学は批判するが、朝廷が正式に征夷大将軍の任を与えた徳川幕府には忠誠を誓うべきだとも述べる。

宗教でも政治でも学問でも、取り戻せない過去を理想化し、現実の諸相を頭ごなしに否定する「原理主義」的な態度には与したくないと思う。

『女おとな旅ノート』

堀川波『女おとな旅ノート』(幻冬舎 2011)を読む。
イラストレーターを生業とする著者が、国内外の旅で見つけたおしゃれな着こなしや雑貨について語る。
旅コスメやカフェなど私自身が全く興味がないものばかりなので、後半はさらっと読み飛ばした。
著者も殊更女性感覚を強調するので、感性に関する男女間の深い溝を実感した。

『広重』

楢崎宗重『広重:人と歴史・日本 25』(清水書院 1971)を読む。
江戸末期の浮世絵師として名声を恣(ほしいまま)にした歌川一門の安藤広重の生涯と作品について細かく解説している。広重の代表作というと『東海道五十三次』だが、遠近法が取り入れられ、何気ない宿場の風景なのだが、日本に四季の彩りを感じるものとなっている。”芸術”志向が強かった葛飾北斎とは異なり、広重は現在の観光案内や宣伝ポスターのイラストや挿絵なども幅広く手がけており、写真が普及する以前の”デザイナー”と捉えると分かりやすい。

 鈴木春信は1765年に錦絵を創成し、版画による風俗表現に一新世紀元を画し、その後美人風俗画は清長・春章らを経て、歌麿に至って芸術的表現の絶頂をきわめた。役者絵も春章が個性描写の新様式を創始し、それは写楽に至って絶頂をきわめた。このように(中略)黄金時代を現出したが、結局、歌麿と写楽とを最後の価値体験者として、その後は芸術的価値創造性を失ってしまった。このときにあたって浮世絵に新しい視野をあたえ、芸術的価値創造の道をひらいたのは、風景画と花鳥画とであった。

花鳥虫魚の絵に一段の光彩を放ったのは北斎である。北斎はあらゆる花・鳥・諸動物をかいているが、その作風は、一面には北斎の主観的な意思的なものを反映する個物としての花鳥画であり、他面にはきわめて客観的な実在そのものの性格描写という二重性を示している。(中略)広重は北斎とは全く相反する態度を示した。客観的に対象を把握し、これを豊かな詩情をこめて表現した。(中略)自然の一角、個物的断片をかいて、これをもって自然と人生とを象徴しようとする広重の芸術は、実に客観的抽象的な題材としての花鳥を、高次な価値において表現するものである。庶民の精神生活の向上を、胸のすくような鮮やかさで表現するものであった。

回りくどい言い回しで何を言いたいのか分からないが、歌麿と写楽で美人画や役者絵、相撲絵は完成し、北斎と威広重がアプローチこそ異なるが、風景画を完成させたということは理解できる。

浮世絵
浮世、すなわち当世の風俗、世態、人物を題材とした絵のこと。
室町・桃山の狩野・土佐派の風俗画の影響を受けて起こる。初めは遊里、のち一般風俗、風景、役者など広く扱い、肉筆画と木版画がある。特に版画は菱川師宣に始まり、一色刷りから錦絵に発展。鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、それに、江戸末期の最大派閥である歌川一門出身の安藤広重などが代表的作家。版画は西洋の近代絵画、特にフランスの印象派に大きな影響を与える。
フランスの印象派は、光に反射する色彩の視覚的効果をそのままに捉えようとする技法で、マネ、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどが代表。なお、明治になってフランスに遊学していた黒田清輝によって日本に紹介(逆輸入)された。

『もっと知りたい日本の現代史』

鈴木亮『もっと知りたい日本の現代史:第1次世界大戦から湾岸危機まで』(ほるぷ出版 1991)を読む。
著者は高校で教えていた経歴もあるので、不勉強な高校生にも分かりやすく、日本とアジアの関係ついて説明する。戦前の共産党運動に肩入れしている部分が数多くあり、「あれ、大月書店の本だっけ?」と奥付を見返したほどである。
最後に筆者は次のように語る。

 歴史は暗記科目だ。試験のまえにちょっとおぼえればいいという姿勢が、歴史をつまらなくし、無意味にしてしまう。軽々しい歴史の語句の暗記は、かえってその人の世界観や人生観にマイナスにさえはたらくだろう。
歴史の事実・知識のなかには、その時代を生きた人々の、怒りや喜びや悲しみや苦しみ、愛や残酷さや、強さや弱さが込められている。果たそうとして果たせなかった願いがこもっている。命をかけた言動がある。
そのできごとのもつ意味を考える。なぜそうなったのか、なぜそうならなかったのか、そうしたのは誰か、そうさせなかったのは誰なのか。これはだれとだれのたたかいだったのか、この事実とこの事実がどこでどうむすびついているのか、むすびついていないのかを考えてみる。第2次世界大戦後の日本は果たして、ヒトを食うしごと(1945年の覚え方)をやっていないだろうか。
歴史の学習というのは、やさしい勉強ではない。歴史の本を読んだら、すぐに歴史がわかったというわけにはいかない。ある高校生は「歴史は現代の理由だ」といった。

『Jポップの作詞術』

石原千秋『Jポップの作詞術』(NHK出版生活人新書 2005)を卒読する。
2001年から05年にかけて大学受験雑誌に連載されたもので、漱石研究の第一人者の著者が当時人気だったJポップの歌詞を「テクスト論」として分析しようという意欲作である。テクスト論とは、生身の「作者」と「テクスト」とを切り離して論じるもので、「作者の意図」など全く考慮しないというものである。つんくや福山雅治、平井堅など誰しもが知っている作詞者が取り上げられており、歌詞の分析からそうした歌詞が生まれてくる背景についても触れられている。
消費社会論について高校生向けの”超”分かりやすい文章があったので、紹介したい。

 (B’zの『GOLD』の歌詞から取り出した)キーワードのところで、「期待」や「不安」の主語はすぐに決めることができるのに、「欲望」の主語はすぐには決められないものだと言った。「欲望」とはずいぶん不安定な言葉なのだ。では、そもそも「欲望」とはどういうものなのだろうか。

僕たちはいま大衆消費社会に生きている。こういう社会は「欲望」を前提として成り立っている。例えば、人々が最低限の生活必需品しか買わなくなったら、この社会は成り立たないのである。人々が余分なものを「欲望」し、それを実際に買うことで大衆消費社会は成り立っている。
無責任なマスコミは「もったいない」という精神を日本独特の美徳として宣伝する一方で、「家計の財布が緩まないと景気がよくならない」などと、無駄遣いの勧めを説いたりする。いったいどっちが言いたいことなのか。マスコミはもともとデタラメなものだから無視すればいいが、僕たちの「欲望」がどこからやってくるのかという問題については、考えておかなければならないだろう。

僕たちは社会的な「欲望」は、決して内面から自然に沸き上がってくるものではない。君たちは「みんなが持っているから、自分も欲しい」と思ったことはないだろうか。そう、僕たちの「欲望」は「みんな」を基準にしているのだ。この場合の「みんな」とは身近な人だけを意味しない。マスコミが作り出した「みんな」もまた「欲望」の基準となる。人々が「みんな」を基準に生きることが、大衆消費社会の特徴なのである。「みんな」がお互いを真似しあっているのだ。
こういう「欲望」のあり方を利用したのが、「流行」である。ブランド品は、もっと巧妙だ。「みんな」と同じモノを身につけていることで安心を与えてくれ、それでいて「みんな」よりも少しだけ「上を行っている」感じをも与えてくれるのが、ブランド品だからである。これは、僕たち大衆の心理そのものだと言える。

だから、現代思想では「私の欲望は他者の欲望である」(ジャック・ラカン)と言ったりする。でも、「みんな」の真似ではなく、はじめて何かを「欲望」する人がいる。その人は大衆ではなく、たぶん「天才」なのだ。例えば、ソニーのウォークマン伝説。あの頃、自分だけの音楽を持ち歩けるなんて誰も思っていなかった。つまり、誰もがそんなことを「欲望」していなかった。ところが、ソニーの中にそれを「欲望」した人がいて、ウォークマンという形にしたのだ。そしてそれまでどこにもなかった「欲望」を作り出した。以後ソニーは、「人々の欲しいモノを作る」会社ではなく、「人々の欲望を作る」会社だと言われたものだ。これが「天才」の仕事でなくて、何だろう。

僕たちは、「欲望」は自分の内側から沸いてくるものだと思い込みがちだ。しかし、実は自分でも気づかないで「他者」を真似ているだけだったり、どこかで「欲望」を作られているだけだったりするのかもしれない。そう考えると、こういう「欲望」の性質に自覚的になることは、いまとても大切なことだと思う。