読書」カテゴリーアーカイブ

『永徳と山楽』

土居次義『永徳と山楽:桃山絵画の精華』(清水書院 1972)を少しだけ読む。
狩野永徳は、室町時代に大和絵の技法を取り入れ狩野派を大成した狩野元信の孫にあたり、日本美術史を代表する人物である。唐獅子図屏風』や『洛中洛外図屏風』『聚光院障壁画』などで知られる。しかし、永徳がその生涯において最も精魂を傾けて制作にあたっと思われる安土城、大阪城、聚楽第の諸城の障壁画はみな不幸にして隠滅してしまっている。
狩野永徳の功績は弟子である狩野山楽の作品によるところが大きい。狩野山楽は永徳と血が繋がっているわけではなく、永徳に弟子入りしてから、永徳の画法を忠実に学び、多くの作品を遺している。漢文の抑揚形のように、「山楽でさえあれだけの素晴らしい作品を描いたのだから、まして師である永徳はなおさらだ」という評価がなされているようだ。

『日蓮』

川添昭二『日蓮:その思想・行動と蒙古襲来』(清水書院 1971)を少しだけ読む。
蒙古襲来の予言と他宗攻撃で知られる日蓮の生涯がまとめられている。ただし、蒙古襲来の予言の裏事情や他宗との違いにばかり紙幅を費やし、肝心の日蓮本人の魅了が伝わってこなかった。小説で読みたかった。

『田沼意次』

大石慎三郎監修・後藤一著『田沼意次 人と歴史・日本 21』(清水書院 1971)をさらっと読む。
田沼意次というと、賄賂や天明の大飢饉による政策の失敗など、負のイメージが強い。しかし、そのほとんどは根拠のない噂や捏造されたものであり、著者は寛政の改革を進めていく中で、スケープゴートとして喧伝された側面が強いと述べる。
田沼意次時代は政治的にも文化的にも自由な雰囲気が溢れていたのだが、松平定信の時代に入ると政治的には倹約、文化的には統制が打ち出される。そうしたストイックな政策をゴリ押しするために、一昔前のルーズな田沼政治が実際以上に否定的に捉えられたのではないか。田沼意次再評価の先鞭を付けた内容となっている。

『指導者 上杉鷹山に学ぶ』

鈴村進『指導者 上杉鷹山に学ぶ』(三笠書房 1992)をサラッと読む。
江戸時代屈指の名君として名高い米沢藩10代藩主の上杉鷹山の政治哲学、経営理念が紹介される。バブル期の経営者向けに書かれた本で、いささか強引な現代的解釈が散見されるが、鷹山の偉人ぶりは伝わってきた。
鷹山は東北地方で数十万人が亡くなった近世最悪の天明の大飢饉(1782〜1788)を一人の餓死者も出さずに乗り切ったことで知られる。鷹山は上杉家の嫡男だと思っていたが、山形とは遠く離れた日向(宮崎県)高鍋藩の二男として生まれている。そして重度の障害を抱えていたであろう幸姫との養子縁組が結ばれて、米沢藩主となった人物である。全くのアウェイな山形県に赴任し、既得権益を主張する輩を説得し、逼迫した藩財政の一大改革を成し遂げている。また、教育にも関心を持ち、現在も高校の名前に残っている「興譲館」を起こしている。
戦国武将のように派手な戦争をしていないし、江戸幕府の中枢で政務を執ったわけでもない地味な存在ではあるが、「もし鷹山が〜〜だったら」と想像を膨らませてみたくなる人柄である。

ちなみに、日光東照宮の社務所の記録によれば、天明3年の6月から8月の92日間の天候は、雨53日(57%)、晴19日(20%)、曇13日(15%)となっており、盛岡や米沢では人口の20%が亡くなり、仙台藩では30万人が餓死・病死したと言われる。吉宗の孫である松平定信が藩主を務める白河藩でも餓死者が一人も出ず、後に松平定信は老中に補され、寛政の改革に取り掛かっている。

『自分を変える読書術』

堀紘一『自分を変える読書術:学歴は学〈習〉歴で超えられる』(SB新書 2015)を読む。
経営コンサルタントで株式会社ドリームインキュベータ代表取締役会長を務める著者が、自身の華やかな経歴を披露しつつ、自分自身の読書論を語る。「細切れの時間を繋いで読書時間を作り出せ」だの「欧米に比べて日本人には教養がないので古典に親しめ」など、紋切り型の読書術であまり参考になるところはなかったが、表現力や感受性を高めるために小説を読めという言葉は印象に残った。

 読書ノートはぜひ書いたほうがいいと思う。(中略)読書ノートにとくに決まりはない。日付、読んだ本のタイトルと著者名を書いたら、その本を読んで自分が感じたこと、心に残った言葉や表現を好きなように書いていけばいい。2行で終わる本があってもいいし、10行くらい熱心に書く本があってもいいと思う。いずれにしても頭に留めるだけではなく、自分の言葉に置き換えてアウトプットすることが読書の深化につながる。それは時間をかけて教養となり、人間力を高める最大のトレーニングになるだろう。