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"イマジン"

先日ジョン・レノンの”イマジン”という曲を聞き返すという経験をした。
改めてネットで検索して歌詞を読み返すと様々な訳の仕方があることが分かった。そしてその訳出によって意味合いが大きく変わってしまう。キリスト教の否定やマザコン的発想、仏教的世界観への転換等々あるようだが、この歌は想像すること、そして行動することからしか理想郷社会は実現できないという現実思考型のススメである。共産主義という理想が現実崩れてしまった今だからこそ、理想社会を想像する余裕と、現実へのあくなき行動が求められる。

本日の朝日新聞の夕刊に、心は反戦だが、デモなどの行動には参加しにくいとの読者投稿の紹介の記事が出ていた。近所の人とも話しづらいし、かといって労組や「市民」団体主催のデモや反戦集会にただ参加しても自己満足に終わってしまうだけと言う読者の本音に考えさせられるところがあった。イラクとアメリカの戦争という遠い現実と、仕事や勉強、家事といった近い現実のギャップをいかに埋めることが出来るのか。学生の時は何も考えずに行動できたが、このささいなギャップを一つ一つ丁寧に想像という架け橋でつないでいくことが大事なのだろう。

想像してごらん、天国が無いことを そんなに難しいことじゃあない
地獄なんてない 僕らの上には空があるだけさ
想像してごらん人々がみんな 今日を生きていることを
想像してごらん国が無いことを そうすることは大変なことじゃあない
国のために殺すことも死ぬことも無いんだ 宗教だってないことを
想像してごらん 人々がみんな 平和に生きていることを
想像してごらん 個人財産がないことを
貪欲も飢餓も必要ないことが想像できるかい
人はみんなが兄弟なんだ
想像してごらん みんなが世界を分け合っていることを
僕が夢想家だって言うかもしれない
だけど僕は一人じゃあない いつか君も仲間に加わって
世界が一つになることを 望んでいるんだ

イバン・イリイチ

今月から3か月間だけ朝日新聞をとることになった。今日の夕刊で明大教授栗原彬氏が昨年12月に逝ったイバン・イリイチについて述べたコラムが気になった。

イリイチは何度か来日したが、殊のほか水俣と沖縄の旅を好んだ。そこに現代の極限を見ただけではない。未来を拓く生命系の拠点、「ホーム」(親密な空間)を見いだしたのだ。かれはインドのガンジーの小屋で、癒やしと寛ろぎの訪れの中に、ガンジーの生命共生のメッセージを聞き取って、この空間を「ホーム」と呼んだ。(中略)「ホーム」では、私やあなたや隣人たち、つまり人間の複数性を前提に、身体と簡素な道具で世界に働きかける生の営みが行われ、身体と身体の間に、体温をもった文化が生まれる。

イリイチは現代文明を批判してやまなかった。私たちはとっくに分水嶺を左から右へ越えてしまった。峯を右から左へ逆方向に越え直そう、そのために文明のただ中で、至る所で「プラグを抜こう」と呼びかけた。彼への内発的な応答として、私たちは越境の構想を練らねばならないだろう。

栗原氏はイリイチの思想を受け継いで、「共生のガバナンス」と題してNPO、NGO、国家、企業など多元的な行為体の連携を呼びかける。そして具体的な実践例ととしてドイツの脱原発や「障害者差別禁止法」の立法化を挙げる。ドイツやフランスなどでは、国家・企業を巻き込んだ社会民主主義(修正主義と批判されようが)が具体的にイメージ出来るが、日本ではどうしても「プラグを抜く」ような共生的な価値観に基づいた社会像の青写真が描けない。生活レベルでの小さいスケールでの実践がまず問われてくるのであろう。

少々話は変わるが、昨日あたり日テレやフジテレビを中心に、北朝鮮の正月番組を例のごとく「金正日によって洗脳された薄気味悪い国家」という視点で再編集し放映していた。偏向報道をさらに偏向しているので、実情は不明であるが、国家によって行動規範のイロハの全てを押し付けられてしまう人民の悲惨な生活レベルは垣間見えた。
しかしあれほど社会・教育の全体に渉って金体制崇拝が押し付けられ、個人の思考が歪められてしまう現実をどう変えていけばよいのだろうか。特殊北朝鮮だけの問題でなく、国家と個人の一般問題としてどう考えていけばよいのだろうか。一つ考えられる突破口は”恋愛”であろう。「恋は盲目」という。恋愛ほど外部の価値観が入り込まないものはない。うまくまとまらないが、米軍による爆撃に代わるポジとして、激しい恋愛の小説や歌、映画を北朝鮮に送り込むというのはどうだろうか。北朝鮮の人々がどのような過程で結婚しているのか不明であるが、体制が厳しくなればなるほど、「LOVE&PEACE」といったように、自由恋愛から平和を希求せんとするジョンレノン的なメッセージが力を持つ。

ジョン・ロールズ

昨日の東京新聞の夕刊に、先月亡くなったジョン・ロールズについての日本での扱われ方について、宮崎哲弥氏の分かりやすい解説が載っていた。ロールズは国家公共体は何故、社会的弱者に保護や援助の手を差し伸べる義務があるのかという謎を解き明かした20世紀を代表する政治哲学者である。彼は社会主義とは異なる思想に依拠し福祉の重実を唱えた。ロールズの説を簡単に述べると次のようなものになる。「社会の最も恵まれない境遇にある者の福祉は最大限に改善されなくてはならない。何故なら、自由で機会の平等が保証された社会において、そうした地位は偶有的なものにすぎず、いつ誰が最悪の境涯に立たされたとしてもおかしくない。そのリスクを勘案すれば論理必然的に、最も不遇な者の福祉を増進する社会制度が望ましいということになる。」

民主党の分裂ごたごた騒動を見るにつけ、リベラリズムに関する議論の成熟の必要性を感じる。本来は「個人と個人、共同体と共同体のあいだの紛争や軋轢を一段上から調停する公共性原理としての性格を有する」と考えられるリベラリズムを、防衛や経済・金融制度にうまく織り込んで具現化させていく政党が現在の日本の政治に求められることはいうまでもないだろう。私自身は支持しないが、民主主義政党を標榜する民主党が野党第一党としての小泉政権に対する批判能力を持つことが短期的には必要であろう。

鳩山党首辞任

今日の朝刊の一面はどこも民主党鳩山党首の辞任報道であったが、政治のワイドショー化が徹底した結果であろう。ワイドショーで扱いやすい、画面に表われる鳩山、管氏の「人柄」で報道の方向性が決められている。実体の薄い小泉人気とあいまってますます政治が「分かりやすく」なってしまうのは恐い。

「障害学の時代へ」

本日の東京新聞の夕刊に全盲の静岡県立大学国際学部教授の石川准氏の「障害学の時代へ」と題した文章が載っていた。一口に「障害学」というのは「だれもが自由に、つつがなく、元気に生きていくのに必要なだけの財やサービスが得られるように分配することを優先すべきだと考える。もちろん働ける人には大いに働いてもらわなければならないので、働いて市場で評価された人ほど多くの収入を得てよいと考える」という市場主義経済をあわせ持つ共産主義の発想である。
「身体障害」、「精神障害」の中に含まれる「障害」とは、結局誰にとって一番の障害になのかと突き詰めていくと、結局特定の個人ではなく、市場主義経済の円滑な運営にとって支障になるものなのである。するならば「障害」を解消していこうとするならば、社会のあり方を変えていかねばならないということだ。「障害者問題」は得てして個人の思いやりやボランティア精神という議論に回収されがちであるが、石川氏の提唱する「障害学」の射程はあくまで社会のありようである。