創価大」カテゴリーアーカイブ

東洋史 第2課題

はじめに 宋代以後、身内による殺害などの事態はなくなり、皇帝政治は一見安定を見せる。一方で、皇帝個人の資質で国が動くこともなくなり、国内政治や経済、外交といった幅広い面でバランス感覚が必要となってきた。

(宋) 宋を開いた太祖、次の太宗の最大の政治目標は、統一の維持と分裂の回避に置かれ、徹底した中央集権政策と五代軍閥勢力の削減に注力した。特に軍事面においては、全国の藩鎮軍や群盗・盗賊からも兵卒を募り、皇帝直轄軍を編成した。また無頼・反社会分子を大量に禁軍に送り込み、反王朝勢力となることを阻止しようとした。また、官僚制を貫徹し、皇帝のみを最終決定者とし、全国の一元支配を目指した。類似の官職を設けて、決定を一官職に偏在させない分割統治を実施した。さらに、科挙の地方試験合格者の定員枠を設けたことにより、全国の地方地主が科挙制を通して、中央に参加する道が開かれ、社会と国家を結ぶ紐帯として機能し、安定が確保された。周辺民族に対しても、一方的な征伐ではなく、澶淵の盟に見られるような共存関係の道が開かれていった。
 政治的・外交的には安定をみたが、度重なる軍事費の捻出による財政破綻が国家を苦しめることになった。王安石の新法の試みも虚しく、大地主や豪商らの激しい反撃に遭い、女真族の進出を許すきっかけとなっていった。

(遼) 契丹族の征服王朝という性格から、耶律阿保機による建国以降、遊牧民には固有の部族制、漢人・渤海人・高麗人には州県制を布く二元統治体制を行った。また、経済的には漢人を中心とした農業生産重視の政策を取った。しかし、積極的な草原地帯の農地化などの結果、農耕民が経済的に優位になる一方、放牧地の狭隘化や家畜の減少へと繋がっていった。財政の充実を図るために、漢化政策を推し進めていたが、これに反発する国粋主義を唱える保守派との対立を招き、政治的経済的な相克の激化が衰亡の要因となった。

(金) 女真族の完顔阿骨打が統一し、南宋との和議成立の後、漢化政策が進められていった。しかし、漢文化を重んじた海陵王が部下に殺され、女真中心主義をとった世相が漢人の不満を招いたりして政治的な安定は見られなかった。また、南宋との開戦による軍費支出の増大が財政を逼迫していき、Mongol軍の侵入を許す遠因ともなった。

(元) 建国者の忽必烈が遊牧諸勢力の支持を受けた末弟との間でハン位継承戦争を戦わねばならなかった事情から、建国当初から成吉思以来の大Mongol支配の枠組みを使いつつも、一方においては中国的王朝の外貌を持ち、人的資源、物的資源、さらには軍事力まで漢地に大きく依存した国家であった。漢人知識人を用い、有力漢人軍閥を味方にすることで、経済政策では抜きん出た実績を上げた。
 一方、中期まで科挙が実施されずMongol人中心の信臣支配体制を重んじ、組織機構の整合性よりも、人物・人脈を優先する傾向が見られた。このことがハン位継承制度の不備につながり、後の衰退の原因ともなっていった。

(明) 洪武帝の即位後、中書省を廃して六部を独立させ、御史台に代わる都察院を新設するなど、一気に中央集権的君主独裁制が整備されていった。また法典や兵制も整備され、里甲制を通じて農村支配が徹底した。
 永楽帝は対外的に積極策をとり、Mongol族に対して、「五出三犂」といわれる親征を繰り返し、東北一帯、貴州、Vietnamにも兵を進めた。また万暦帝は「万暦3大征」と呼ばれる内外の戦争を繰り返した。相次ぐ軍費の支出が増大し、明朝の国庫が脅かされることになった。しかし、財政に力を入れるも宦官の介入が蔓延り、国政は大きく乱れていった。

(清) 太宗即位後、官制・法制初め軍制に至るまで、明の制度をほとんど踏襲し、いっそう強化した独裁君主制のもとで直ちに科挙を再開して、多くの優秀な漢人を任用した。征服王朝として、多数の漢人を支配するために、内閣、六部、都察院のみならず、後に国家の最高機関となる軍機処の大臣にも満州人と漢人が同数となる満漢偶数制がとられた。
 また、対外的にはNerchinsk条約でRossiyaの東進を阻止した。国内では、反乱の勢力ともなる蒙古、青海、新疆、Tibetに対して藩部として理藩院の監督のもとで自治を許し、分割して相互に牽制させ、諸勢力を慰撫懐柔した。
 政治的外交的に安定し、経済的にも発展したが、市場の拡充による地主層や豪商の地位の向上の一方で、旗人や小作農が相対的に没落し、内乱の続発に繋がっていった。

むすびに 宋代以降、元代を除いて、儒教と専制君主制が上手く噛み合い、宮廷内での皇帝権は安定していった。しかし、右肩上がりの農業生産や商業活動を上手く取り込むことができず、格差の拡大に伴う国内の反発を招き、結局は欧米の進出に屈する結果となった。

《参考文献》
『世界歴史大事典』教育出版センター 1991

東洋史 第一課題

皇帝政治の確立と展開について、秦の始皇帝・前漢の武帝・北魏の孝文帝・唐の太宗を中心としてまとめなさい。


はじめに 中国古代の皇帝政治の成否は偏に中央集権的専制主義の確立の如何に掛かってきた。周辺の他民族や領土内の地方勢力,また宮廷内外の親族といった反乱分子を抑えるだけの政治的・軍事的・財政的な威圧が万全であれば,自然と皇帝を求心とする体制ができあがるが,上記の威圧の一つでも綻びが生じると,途端に反乱が生じ,その体制は脆くも瓦解する。

(1)秦の始皇帝 始皇帝は法家の李斯を登用し,全国の兵器および地方の富豪を都咸陽に強制的に集めて争乱の原因を取り除いた。そして,地方を36郡に分け,郡の下に県を置き,それぞれ中央から官僚を派遣し,地方を直接に支配する体制を整えた。中央には丞相,大尉,御史大夫の三権を分立させた上で,皇帝が統括する上意下達の仕組みを作った。
 また政策の批判を許さず,秦記録,医薬,卜筮などの思想に関係しない書以外は焼き捨てさせ,批判した学者など460余人を坑に埋めて殺した。さらに,貨幣を統一することで財政基盤を確立した。また,北は匈奴を討ち,長城を整備し,南は閩・南越を合わせ,周辺民族の活動を抑えた。
 始皇帝は国家の威厳高揚と実務を極めて高いレベルで両立した人物であったが,あまりに改革を急ぎ過ぎたがために,民衆や地方勢力の反発を招き,始皇帝の死後10数年で帝国は崩れることになった。

(2)漢の武帝 古代統一帝国の完成者として,最も著名な専制君主の一人である。秦の始皇帝が目指した中央集権体制は,前漢建国期に地方勢力の伸長により一時期後退を余儀なくされた。しかし,呉楚七国の乱で封建諸国の勢力が弱まったことにつけこみ,武帝は諸侯王の嫡子以外の子弟にも国を分割相続することを許可した「推恩の令」を発し,強固に郡県制を推進した。また,「郷挙里選」を採用して有能な官僚制度を整備するとともに,これまで批判勢力であった儒教を逆に専制支配の思想的支柱として取り込み,徳治主義的な皇帝の印象を植え付ける戦略をとった。
 さらに,五銖銭の鋳造による経済の安定,銭納賦税を始めとする諸新税,売爵制,塩・鉄・酒の専売,均輸平準法など,国庫収入の増加を図ることに努めた。匈奴討伐にも成功し,西域との交易も始められた。
 しかし,武帝の治世の晩年には,相次ぐ外征と土木工事のために民力の疲弊が進み,大商人や大土地所有者が勢力を拡大し,貧民・流民が増加して財政難に陥り,帝国衰退の兆しが現れた。

(3)北魏の孝文帝 鮮卑族出身であるが,都を平城から洛陽に移して漢文化の吸収に努め,服装や言語を中国風にさせ,漢人との婚姻を奨励するなど,非漢民族の皇帝政治を確立させた。その成功の秘訣は,豪族の土地の兼併を防ぎ,税収を確保する目的で始められた均田制の実施にある。均田制は国家が地主から土地を接収し,広く農民に貸し与え,租庸調制や府兵制と一体化されて実施するという,中央集権体制の要となる政策である。また均田制を補完する目的で,農民の戸籍を確定する三長制も施行された。さらに官吏に俸禄を支給する俸禄制も実施し,宮廷内においても強大な皇帝権が確立された。
 しかし,急激な漢化政策と中央集権体制への不満から,帝の死後反乱が起き,国内分裂を招くことになった。

(4)唐の太宗 唐の第二代皇帝となった李世民は,母を同じくする兄弟が4人いたが,「玄武門の変」と言われるクーデターによって,兄弟とその子の諸王をすべて誅殺して太子となっている。
 即位後,後の皇帝政治の典範とも仰がれる「貞観の治」といわれる盛時を現出した。『貞観政要』には,政治のあり方や君臣関係に始まり,政府機構の簡略化,法制の整備,儒学の尊重,さらには宮廷内における安定を図るための皇帝自身の修養の重要さや,奢侈の戒めなどについて,太宗と臣下の間で交わされた政治議論がまとめられている。
北魏で始まった均田制や租庸調制,府兵制を整え,皇帝直轄の門下省を軸に,中書・尚書三省と六部の制を整備した。また,国内では皇帝直轄体制を敷いたが,対外政策では武力を用いずにそれぞれの部族や首長を懐柔し,自治を許し間接に統治する「羈縻政策」が行われ,硬軟の使い分けも巧みであった。
 太宗の死後も唐の歴代皇帝は安定した政治を行ったが,安史の乱以後,皇帝の権威は失われて節度使とよばれる地方勢力が勢いを増し,ウイグルや吐蕃などの周辺民族の侵入も始まった。

むすびに 中央集権的専制主義の綻びが国家全体の崩壊へと傾いていった歴史が示す意味は,現代中国政治においても傾聴に価するものである。

《参考文献》
『世界歴史大事典』教育出版センター(1991)
稲畑耕一郎『皇帝たちの中国史』中央公論新社(2009)

『[マンガ]日本の歴史がわかる本』

本日、大学通信教育の3回目の試験を受けてきた。
西洋史は17世紀のオランダ経済と18世紀のイギリス経済の比較、経済学史はリカードの労働価値説と、差額地代論、比較生産費説の説明であった。
今回はきちんと項目ごとにノートを作って試験に備えたが、直前の勉強が捗らず、何となるだろうと不遜な態度で臨むことになってしまった。
試験は残り2科目、東洋史と日本史を残すのみである。レポートもそれぞれ2本ずつ提出せねばならない。
受かる受からないという狭い料簡ではなく、自分で決めたことなので自分で納得した形で締めくくりたいと思う。

index1

早速、日本史から丁寧に復習したいと思い、勉強のキッカケになればと、一冊のマンガを手に取ってみた。
小和田哲男監修、小杉あきら画『[マンガ]日本の歴史がわかる本:【室町・戦国〜江戸時代】編』(三笠書房 1999)を読んだ。
応仁の乱から江戸の天保の改革までの400年間の歴史が一冊の文庫本にまとめられている。大変大雑把なのだが、返って歴史の流れが掴みやすく、今の私にぴったりの内容であった。

2回目の試験

本日、神田小川町まで2回目の試験を受けにいった。
地誌学と社会科教育法Ⅱ、自然地理学の3科目である。
普段の行い(?)が良かったのか、たまたま試験直前に目を通しておいたところが出たので、何とか解答用紙を埋めることができた。

帰りに小川町から神保町までブラブラ歩きながら帰ってきた。
途中三省堂に立ち寄った。何年ぶりであろうか。10数年ぶりか。。。
しかし、日曜日の昼下がりであったが、往時の賑わいには欠ける雰囲気であった。

経済学史 第4課題

長期期待と金融市場
 Keynesは,投資においても流動性選好においても,「期待」の持つ役割を非常に重視している。マクロ経済学の移動的均衡理論は,「将来に対する見方の変化が現在の状況に影響を及ぼすことのできる経済システム」であり,同時に,群集心理によって投資が過熱する賭博的市場である。
 「ビジネス決意の基礎」には「短期期待」と「長期期待」がある。資本設備を一定とした企業の毎朝の生産量決定は短期期待である。一方,主として将来の資本設備を追加するケースは長期期待に依存する。長期期待とは「確信をもって予想しうるにすぎない将来」全体に対する心理的期待の状態であり,市場が安定していれば,将来への投資動機としてプラスに働く。しかし,「確定的な変化を予想する明白な根拠はないにしても,現在の事態が無限に持続するという仮説が普段よりは些か怪しくなった異常な場合には,市場は楽観と悲観の波に曝されることになろう」と,投資市場への確信が僅かでも揺らいでしまったら,長期期待は土台から崩れてしまう。
 「投機家は,企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば,何の害も与えないであろう。しかし,企業が投機の渦巻の中の泡沫となると,事態は重大である。一国の資本発展が賭博場の活動の副産物となった場合には,仕事はうまくいきそうにない」と,マネーゲームに翻弄され世界大恐慌の引き金となったニューヨーク市場の実情に触れている。さらに,投資の発展と阻害の機能を併せ持つ投資市場のジレンマについて分析を加えながら,「一般的,社会的利益を基礎として計算することのできる国家が,投資を直接に組織するために,今後ますます責任を負うことを期待している」と述べ,市場に国家政策が介入することの重要性を説いている。

アニマルスピリッツ
 Keynesは上述の「投機の基づく不安定性」がなくとも「道徳的,快楽的,経済的とを問わず数学的期待値に依存するよりも,むしろ自生的な楽観に依存しているという人間本性に基づく不安定性が存在する」と述べる。さらに,「将来に影響を与える人間の意思決定は,我々の生まれながらの活動への衝動であって,我々の合理的な自己は,可能な場合には計算しながらも,しばしば我々の動機として気まぐれや感情や偶然に頼りながら,できる限り最善の選択を行っているのである」とし,Keynesは人間をアニマル・スピリッツをもって知性を駆使する存在であると定義づける。

ケインズの経済政策
 Keynesによれば,経済社会の欠陥は失業と富・所得の不平等であり,消費性向を高める所得分配政策と,利子率政策,投資のやや広範な社会化の3つの政策の必要性を提唱している。
 1番目について,Keynesによれば,完全雇用が実現するまでは資本の成長において低い消費性向は阻害要因であり,貯蓄は過大となっているから,消費性向を高める所得分配政策が有利である。そうすれば富の不平等が是正されると見ている。さらに,マネーメーキングの動機と私有財産制度は,価値ある人間活動の実現に必要であり,同時に危険な人間の性癖を緩和するためにも必要だと述べ,拡大しつつあった共産主義に牽制を加えている。
 2番目の利子率政策とは「利子率を資本の限界効率との関係において完全雇用の存在するまで引き下げる」政策である。
 3番目の政策として,公共事業政策こそが「完全雇用状態を確保する唯一の方法」だとする。ただし,政府の役割は「消費性向と投資誘因との間の調整を図るための中央統制」までであり,これを超えた「国家社会主義体制」は正当化できるものではない。

 Keynesは「もし我々の中央統制が,完全雇用に近い状態に対応する総産出量を実現することに成功するならば,この点から先は古典派理論が再び本領を発揮するようになる」と述べ,個人のイニシアティブを効果的に機能させる政府のあり方を提示する。
 世界大恐慌後、ナチスが独裁政権を作りつつあった欧州戦線を意識し、Keynesは次の言葉で『一般理論』を締めくくる。「個人主義は,他のいかなる体制と比較しても個人的選択の働く分野を著しく拡大するという意味で,とりわけ個人的自由の最善の擁護者である。また,個人主義は生活の多様性の最善の擁護者でもある。生活の多様性を失うことは画一的あるいは全体主義的国家のあらゆる損失の中で最大のものである。なぜなら,この多様性こそ,過去何世代もの人々の最も確実で最も成功した様々な選択を包容する伝統を維持するものであり…将来を改善する最も強力な手段だからである。従って,消費性向と投資誘因とを相互に調整する仕事にともなう政府機能の拡張は…現在の経済様式の全面的な崩壊を回避する唯一の実行可能な手段であると同時に,個人の創意を効果的に機能させる条件であるとして擁護したい」。