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「探究と協同の学びへのイノベーション−日本の学校教育の抱える課題−」

教育学者の佐藤学氏の「探究と協同の学びへのイノベーション−日本の学校教育の抱える課題−」と題した講演会が行われた。佐藤氏は東京大学や学習院大学で長年教鞭を取られ、国内外の多くの学校を訪れる中で、世界に大きく水を開けられた日本の学校現場の改善と、一人も残すところなく学び合う探究と協同による「学びの共同体」を提唱している。佐藤氏によると、日本の学校教育は、生徒の学習環境や学習の中身、教員の働き方など、多くの面で世界最低レベルにまで落ち込んでいる。1970年代まで日本の公教育費支出は世界一であり、そうした教育の質の担保が高度経済成長を支えてきたのだ。しかし、1984年の臨教審以降、「新自由主義」によって、教育費はどんどん下がり続け、GDP比で世界134位と最底辺にまで落ち込んでいる。一学級あたりの児童生徒数は、たとえ35人学級が実現しても、中国、南米のチリに次いで世界で下から3番目の規模である。また、世界では義務教育の教員でも大学院レベルが標準となっており、専門家の集団による高度な授業研究が日々行われている。一方、日本の学校と教師の自立性は世界最低レベルであり、「定額働かせ放題」の給特法により、他国では比較にならないほどの長時間勤務を強いられ、40年前に比べ、研修の時間もゆとりも、そして予算も激減しているのが現状である。皆さんの学校には、授業力向上に取り組む研修を揶揄するような窮屈な雰囲気はないだろうか。

  取り残された日本の教室

続いて話は、教室の机の配置へと続いていった。日本の学校では黒板に向かって縦横一列に机が並んでいる光景が普通である。しかし、この「19世紀型」の教師中心の一斉授業スタイルをいまだに行っているのは、中国とベトナムの農村部、アフリカ南部、北朝鮮、日本だけである。中国やベトナムの都市部を含むほとんどの国では、生徒同士で学び合う協同型授業の机配置となっている。明治以来150年間変わらない、知識の理解・定着を目的とした詰め込み型授業からの脱却が求められる。文科省も注目する学習到達度調査(PISA)で、近年日本の順位が向上しているが、2015年以降、PISAが試験を請け負う業者に委託され、問題の中身が探究型から暗記型へと変わってから、日本や中国、韓国などが大きく順位を伸ばしたという皮肉な事実は覚えておきたい。

  ICT教育の中身

2000年代以降、ICT教育産業が急速に膨張している。人件費が8割を占める教育産業は、ICTによる省力化が最大限に功を奏す市場である。アメリカでは20年ほど前から、学力テストの結果で低い学校がどんどん民間に売却され、画面に向かって学ぶだけのスマート授業の導入によって、公立学校の閉鎖と教師の大量解雇が急速に進んでいる。日本の学校は平均すると生徒17人の1人の教員が配置されているが、CMでも話題の某通信制高校では生徒220人に1人の教員配置となっている。PISAによると、コンピュータを使用すればするほど学力は低下するという調査結果が報告されている。世界トップレベルのGIGAスクールが実現した日本で、学力格差の拡大と不登校の激増が進んでいる事実をどう捉えるか。

  主体的・対話的で深い学び

佐藤氏の研究によると、グループ学習は3種類に分類される。旧ソ連のソフホーズやコルホーズで始まったといわれる、6人班で一致し班長を決めて臨む「集団学習」は、学力が低下するという残念な結果が示されている。次に、日本の教室でよく見られる、4人班で役割分担をして、話し合いや教え合いによる「協力学習」は、一見すると活気に満ちているようだが、話し合いによる学習効果はないと断じる。そして、佐藤氏はヒソヒソ声での聞き合いや学び合い、時には教科書レベルを超えた探究学習を取り入れた「協同学習」を提唱している。一人も独りにしないケアと学びの共同体づくりこそが「21世紀型」の授業であり、これからの教師は、「教える専門家」ではなく、「学びの専門家」へと成長してほしいとのエールで締めくくられた。詳細は佐藤氏が提唱する「学びの共同体」のホームページをご覧いただきたい。

『父・KOREA』

郭早苗『父・KOREA』(長征社,1986)をパラパラと読む。
執筆当時神戸市職員であった著者が、在日韓国人であった父の死に際して、父の生涯を時代とともに振り返る伝記物語となっている。

著者の父は1916年、慶州北道で両班の家系に生まれている。両班(ヤンパン)とはもともと、高麗や李朝時代の高級官僚を指したが、時代が下るにしたがい、両班人口は増大し、本質的には、地主階級といった意味に拡大されていた。両班は「科挙」に合格し、中央官僚への道が開けていたが、官僚として中央に出る者はほんの一握りに限られていた。

1910年来、日本に支配権力は土地調査事業に名を借りて、農民から土地を収奪し、東洋拓殖株式会社など半官半民の植民地会社へ、その土地のほとんどを集中させた。その結果、全人口の8割を占める朝鮮農民の85パーセント以上は土地なしの小作民に転落した。日本人が三度三度米を食べるようになったのは、1918年の米騒動以降だが、それは植民地の産米増殖計画と時を同じくしている。1910年に土地を取り上げ、1920年代に米を取り上げ、そして1930年代には、日本の工場や炭鉱、満州開拓のための徴用工として人取り上げの時代を迎えるのである。

1930年代に朝鮮から日本に渡ってきた在日朝鮮人の大半は居住地が安定していなかった。飯場から飯場へと移動の連続で、当時の作業現場の近くに板切れやブリキの破片でつぎはぎしたバラックが、後年の朝鮮人部落となっていったのである。

特に神戸はゴム靴の一大生産地で、1930年代には輸出において世界一の座を占めるまでに発展したのである。その昔、草草履は部落民のする仕事とされ、「二束三文」という言葉も、部落民への差別語として生まれたという。ゴム靴は草履の延長ではないが、そこに従事する人々は部落民から在日朝鮮人へと代わっていったのである。労働力のべらぼうな安さが、ゴム靴の国際的な安さにつながり、神戸をしてゴム靴主要産地にせしめた由来である。

1939年には国家総動員法に基づき、国民徴用令が交付された。徴用制度は日本国内のみならず、朝鮮や中国の地でも発効し、約150万人の朝鮮人、約4万人の中国人が日本国内に強制連行され、炭鉱、金属鉱山、軍需産業、軍事施設などで過酷な労働を強いられ、総計50万人近い人々が死傷あるいは行方不明になったという。

ホルモン、牛の臓物は今でこそ肉屋に出回っているが、戦前は在日朝鮮人独自の食べ物であった。屠殺場へ行けば、只同然で手に入る牛の内臓を、貧しさゆえに口にしたのは、飯場の朝鮮人土工が最初だった。それが戦後の闇市に進出し、ホルモン焼きというものになって、飢えた日本人の食生活にも入っていったのである。

しかし、こうした安さを武器にしたケミカルシューズも1971年8月の、いわゆるドル・ショックと呼ばれる、ニクソン米大統領の金・ドル交換停止声明であった。この声明により輸出は激減し、長田のゴム靴工場街は、苦境に立った業者が続出し、右を向いても倒産、左を向いても倒産、という混乱状態に陥った。

さらに2年後、1973年10月のオイルショックに見舞われ、原材料の入手難に陥り、席巻していたアメリカ市場を韓国、台湾、香港などに譲渡されていった。

「二束三文」という言葉の由来と、その背景が神戸のケミカルシューズ産業に受け継がれているという時代の伏流がしっかりと理解することができた。

『10代のうちに考えておくこと』

香山リカ『10代のうちに考えておくこと』(岩波ジュニア新書,2005)をパラパラと読む。
精神科医の著者が10代の女子中高生を対象に、勉強や人間関係、心身の成長、社会への関心などを説く。読みやすい文章であったが、あまり関心がなかったので、半分ほどしか読まなかった。

『エネルギーと環境の疑問 Q&A 50』

笠原三紀夫『エネルギーと環境の疑問 Q&A 50:数字でなっとく本質がわかる!』(丸善株式会社,2008)をパラパラと読む。以下、確認のためにまとめおきたい。

石炭や石油といった化石資源の成因は完全に分かっていない。現在主流となっている有機成因説によれば、石炭は5.7億年〜2.5億年の古生代を中心に、陸上の植物が地中に埋もれ石炭に、また石油は2.5億年〜0.6億年の中生代を中心に、海や湖で繁殖したプランクトンや藻が水底に沈んで石油に変わったといわれている。

乾燥した空気の塊が、外部と熱のやり取りをすることなく上昇するとき、熱力学および静力学の法則に従い、100m上昇あたり0.98℃温度が下がる。この変化を「乾燥断熱減率」と呼ぶ。一方、実際の大気においては「気温減率」と呼び、±0.65℃/100mとなる。

『侍タイムスリッパー』

安田淳一監督/脚本/撮影/編集、山口馬木也・冨家ノリマサ・沙倉ゆうの・峰蘭太郎ほか主演『侍タイムスリッパー』(2024,未来映画社)をもう一度観に行った。
流石に最後の対決の場面は結論が分かっていたので、ドキドキはしなかったが、序盤と中盤は繋がりを確認することで十分に楽しむ事ができた。続けて2度も同じ映画を観るという経験は、生まれて初めてではないだろうか。エヴァンゲリオンなど時間をおいて観たものはあったが、わざわざ映画館で観るほど、役者の演技やセリフに魅力があるという証拠である。