高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』(福武書店,1989)を1時間かけて読む。
いまから35年前のバブル華やかりし頃の文芸時評である。ちょうどファミコンソフト「ドラゴンクエストⅢ」が発売された時期で、日本橋の三越本店でファミコンソフトを買うために行列し、売り場まで殺到する光景は懐かしかった。中学生ながらそんなニュースを見ていた記憶がある。
ドラゴンクエストについて高橋氏は次のように述べている。分かるよなあ。
「ドラクエⅠ」から「ドラクエⅡ」へと移り変わっていく過程は、自然成長性とでも呼ぶべき過程だったのかもしれず、その中で「ドラクエ」は製作者の思惑をも越えたゲームに変貌した。それは、我々の無意識をどこかで解放し、そのことによって百万単位の「読者」を生み出したものである。だが「ドラクエⅡ」から「ドラクェ皿」への過程は、すでに生み出した「読者」へ拝跪する過程だったのだろうか。自らが生み出した「読者」のために、「万人に開かれたゲーム」という幻想が生まれた瞬間から「物語」の導入は不可避であった。「ドラクエⅢ」は名工たちにょって磨きあげられた最高のエンターテインメントである。だが、それはスピルバーグの善意のエンターテイメントがそうであるように、そのサーヴィスによって我々をどこまでも軽い疲労へおとしこむのだ。だから、我々はこう言わねばならない。我々に必要なのは「善意」にみちた(それが「悪意」でもほとんど変わりはないのだが)「物語」ではなく、底が抜け、その抜けた底から冷たい風が吹きあがる「ゲーム」そのものなのだ、と。
