和田誠編『心がぽかぽかする本2』(NTT出版 1990)を読む。
前作同様、「NTTふれあいトーク大賞」に入選した200のショートショート作品から20編を抜き出してまとめたものである。突然の同姓同名の青年からの電話や、精神的な障害を持った女性からの注文を受ける航空会社の予約課のちょっとだけほっこりする話が並んでいる。「心がぽかぽか」という大袈裟なタイトルは「看板に偽りあり」である。
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「ロシア・ベラルーシ 国家統合加速協議も」
本日の東京新聞朝刊に、ロシアのプーチン大統領と、隣国ベラルーシのルカシェンコ大統領の会談に関する観測記事が掲載されていた。ロシアと政治的、経済的、民族的、文化的、言語的、宗教的に極めて近い関係にあるロシアとベラルーシの統合がいよいよ実現するのではという内容である。
ベラルーシはかつて白ロシアとも呼ばれており、ベラルーシとロシアは元々同じ国家の同じ民族であった。たまたま他国による支配の地域差で、別の国家になったに過ぎない。また、どちらも表現や政治的自由が規制されており、独裁国家的な国柄も似ている。昨今の合同軍事展開などを鑑みるに、統合という話はもっともな話だが、新聞記事としてはどうかな?
]]>『心がぽかぽかする本』
和田誠編『心がぽかぽかする本』(NTT出版 1989)を読む。
1986年と87年に公募された「NTTふれあいトーク大賞」に入選した短編の少しほっこりするショートショート作品が掲載されている。間違い電話やいたずら電話、恥ずかしくなるほどの勘違いから生まれる人間性がテーマとなっている。
つい最近の本なのに、インターネットもスマホもない時代の感覚や人間関係が表現されていたように思う。
『子供誌』
高田宏『子供誌』(新潮社 1993)をパラパラと読む。
著者は1932年生まれの昭和一桁世代の雑誌編集者・随筆家である。その著者が自身の子供時代や世界の子供を巡る社会状況、子供の視点で描かれた童話や文学について縦横無尽に語る。
あとがきが名文っぽかったので引用してみたい。
ぼくたちは、子供から大人へと上昇してきたのだろうか。それとも、子供から大人へと堕ちてきたのだろうか。答はむつかしい。
ただ言えることは、大人になるほど、かつて子供であったことを忘れがちになるということだ。
ぼくたちは誰でも子供であった。その子供は消えてしまったのだろうか。ぼくには、そうは思えない。大人のなかに「内なる子供」が眠っているはずと思う。もし、そんなことはないと言われると、とまどう、どころかひどく不安だ。子供であった自分と大人になった自分とが、全くの別人だとすると、ぼくとはいったい何者なのか。(中略)大人はしばしば、金銭や権力や名声にあこがれるものだが、子供のなかにあるのはそういうものではなくて、生きることそのものへのあこがれではないだろうか。それはたぶん、すべての生きものと共通するものだ「内なる子供」は、ぼくたちの「内なる自然」だろう。
高度に組織化された人間社会に適合して生きるには、それだけでは足りないのだが、しかし、「内なる子供」「内なる自然」を排除しきって生きるのは、不健全だろうという気がする。そんなことをしたら、大人であることはすなわち病者である、ということになってしまうのではないか。
『あたく史 外伝』
小沢昭一『あたく史 外伝』(新潮社 2002)をパラパラと読む。
10年ほど前に亡くなった俳優小沢昭一さんのエッセー集である。著者の名前だけはTBSラジオの番組で知っていた。軽妙な出囃子の音楽と語り口が印象に残っている。Wikipediaで調べたところ、小沢さんは40歳の声を聞いてから早稲田大学演劇科の大学院に特別入学し、芸能史の研究を5年間続けたとのこと。

