投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『宇宙のかたちをさぐる』

池内了『宇宙のかたちをさぐる:”泡宇宙”の発見』(岩波ジュニア新書 1988)をパラパラと読む。
著者の池内さんは京都大学を卒業後、北海道大学で助教授を務め、東京大学天文台の助教授を経て、大阪大学の教授、名古屋大学の教授と、旧帝大を渡り歩いた人物である。現在でも「世界平和アピール七人委員会」のメンバーを務め、「九条科学者の会」の呼びかけ人でもある。大変エネルギッシュな方である。

本作は地球の大きさを測ったアレクサンドリアのエラトステネスからビッグバンまで、中学生にもわかるようなソフトな語り口で、難解な宇宙物理学を語っている。「ザ・岩波ジュニア新書」といった内容であある。現在でも宇宙は無数の泡がポコポコ膨らんでいくと推測されているようだ。

「食リサイクル100%に挑む」

本日の東京新聞朝刊に、トヨタ紡績でフードロスをなくすため、社員食堂の残飯を微生物で分解させ、発生したガスで発電、さらに、窒素やリンなど農業に必要な成分を含む微生物の消化液を、肥料として近隣農家に提供するプロジェクトが始まったとの記事が掲載されていた。

江戸時代の徹底したリサイクルの現代版という内容である。フードロスは地理の授業でも重要なテーマである。以下は、消費者庁のホームページから転載した内容である。日本の年間のフードロスが、世界の食糧支援量を超えているという事実にしっかりと向き合いたい。

食品ロスとは、まだ食べられるのに廃棄される食品のことです。

日本では、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる「食品ロス」は522万トン(2020)。

これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食料支援量(2020年で年間約420万トン)の1.2倍に相当します。

また、食品ロスを国民一人当たりに換算すると”お茶碗約1杯分(約113g)の食べもの”が毎日捨てられていることになるのです。「もったいない」と思いませんか?

大切な資源の有効活用や環境負荷への配慮から、食品ロスを減らすことが必要です。

『お見合い相手は魚河岸のプリンス』

平野文『お見合い相手は魚河岸のプリンス』(日本放送出版協会 1993)を読む。
著者は声優として活躍され、『うる星やつら』のラムちゃん役を演じている。本作はタイトルにある通り、移転前の築地市場で働く専務とのお見合いのエピソードが綴られている。あまりに個人的な内容ばかりだったので、さらっと読み流した。80年代後半には、千軒以上の仲卸の店がひしめき合っていたという事実が一番興味深かった。

『会えないときこそきれいでいよう』

古内東子『会えないときこそきれいでいよう』(幻冬舎 1998)を卒読する。
著者は1972年生まれのシンガーソングライターである。名前は聞いたことがあるような気がするが、実際にはほとんど知らない方である。構成作家がいるので、ほとんどは編集者の手によるものであろうか、ちょっとまとまりすぎな感じの構成が気になった。

ラジオが友達だったというエピソードなど、同世代がということで共感を読んだ。ラジオを通して、自分自身の内側から湧き出る思いなど、自分たちより下の世代にはない感覚である。また、現在から見ると極めて昭和的な感覚で育った団塊ジュニア世代は、90年代以降は急に価値観が大きく揺らいだ20代を過ごすことになった。経済成長著しい中、古い価値観の中で育ちながら、バブルが弾け、新しい価値観の世の中を生きることになった団塊ジュニア世代の悲哀といったものすら感じてしまう。

母がいないと何もできない父。そんな父を立て、支えている母を見ると、いいなあと思ってしまう。たてえ自分が仕事をしていたとしても、好きな男性のいちばんの理解者であり陰で支える女でありたい。女とはそういうものぞ、と考えているところがどこかにある。

なんて古風な、日本女性的な発想なんだろうと思う。でもそう思っている自分を、否定するつもりもないし、特別だとも思っていない。実際にそうするかどうかは別にしても、日本の女性である以上、私のような

「移民船難破59人死亡」

本日の東京新聞夕刊に、アフガニスタンやパキスタンからの移民を乗せた船が、イタリア沖で難破したとの記事が掲載されていた。授業でも触れたが、この10年近く、中東や北アフリカからの移民が働き口と安心な暮らしを求めてEUに不法に入国するケースが相次いでいる。特にアラブの春以降、激増したシリア難民の受け入れを巡って、EUを二分する大問題へと発展していった。

これに類似したニュースを、3学期末の授業の中で紹介した。本来は正規のルートで難民として保護されるべき人々が危険を犯してまで密入国しなければならない現状を放置する政治の方がおかしいのである。難民の問題は難民自身が問題なのではない。難民を産んでしまった国と、難民を受け入れない国の司法制度の問題として捉えていかなくてはならない。