三田誠広『書く前に読もう超明解文学史』(集英社文庫 2000)を読んだ。
戦後反戦闘争における、早大教授ゆえの(?)ひねくれた歴史観にはがっかりするが、「実存」と「構造」の対立という見方で、戦後派、第三の新人、内向の世代を区分する見方は面白かった。とかく戦後文学の流れは作家がまだ生きているだけあって、その位置づけは難しいが、題名通りの思い切った分類は英断であろう。
文学の視点については、確か野間宏も同じようなことをもっと難しい言い方で表現していたのではなかろうか。確か野間はシェイクスピアの『リア王』を題材に「個別」と「普遍」という観点から、文学のもつ哲学的な、そして政治的な原動力をどこかの本で書いてあったと思う。
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『Joint Security Area』
『7つの仮面』
横溝正史『7つの仮面』(角川文庫)を読んだ。
金田一耕助を通して1950年、60年代といった昭和30年代における日本の世相が垣間見れて面白い。あくまで日本人にとって価値判断の基準は「世間」にあるのだということがわかる。日本人には宗教観が欠如しており、キリストやアッラーといった絶対神を信仰しないために、人が見ていなければ、世間で噂にならなければ全てがまかり通るといった安易な考えに流れやすい。そうした日本人には絶対的価値に照らして物事を判断する経験が無いといった歴史的な経緯から憲法の精神や法律に照らして物事を考える習慣がなく、いつまでも「人様の視線」と人情が日本人の価値判断を左右してしまう。
横溝正史の作品を読むにつれてこの思考パターンに基づく戦後の日本人的社会観の形成過程を実感する。親族に犯罪を犯したものや、「精神病」患者が出たときに、家族ぐるみでそれを覆い隠そうとし、その秘密が本家と分家の争いに歪みを与えているといったじめじめした作品舞台に触れるにつれて、1980年代以降がいかにドライな人間関係へと変わってきているのか、そのギャップに驚き、面白みを今感じている。
『話を聞かない男、地図が読めない女』
アランピーズ&バーバラピーズ『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)を読んだ。
これまで語られてきた男女のすれ違いがホルモンバランスで説明されていて興味深かった。今後DNAの解明が進むにつれて、性格・行動パターンをたんぱく質やアミノ酸によって解釈できる時代がやって来るのだろうか。
「ハンセン病国家賠償訴訟の判決を読んで」
本日の東京新聞夕刊文化欄に載っていた藤野豊さんの「ハンセン病国家賠償訴訟の判決を読んで」と題したコラムが興味深かった。
記事中で、藤野さんは先日のハンセン病違憲国家賠償の勝訴判決についてその限界性を指摘している。それは判決が国の責任を1960年以降についてのみ認めた点である。ハンセン病の治療法が確立し、「治る病気」になってからも隔離を維持したことを誤りとしているわけであるが、それ以前の「治らない病気」とされていた時代における隔離政策について藤野さんは疑問を投げ掛けている。
ハンセン病患者への隔離は、1907年の「法律癩予防に関する件」に始まる。日本は日露戦争に勝利し、欧米列強と対等の地位を獲得したにも関わらず、国内には3万人を越える植民地なみのハンセン病患者を抱えていた。当時の国家はこれを国辱ととらえ、患者を隠すために隔離を開始した。そして1930年代には医療とは無関係に、国立の「特別病室」と称せられたハンセン病患者のための牢獄が設けられて、反抗的な患者22名が凍死・衰弱死・自殺というかたちで事実上、虐殺された。15年戦争中は、強力な兵力を維持するために、そして国民の一体感高揚のためにハンセン病患者の撲滅が目指された。ちょうどナチスにおけるユダヤ人虐殺と同じ論理である。
現在国会内で超党派のハンセン病の最終決着を目指す議員懇談会があるが、真のハンセン病の最終解決は国家の排外主義政策にまで踏み込んで、議論していかなくてはならないだろう。

