投稿者「heavysnow」のアーカイブ

読書と豊かな人間性レポート

読書と豊かな人間性レポート
今日の授業を受けながら、私は何とはなしに、学生時分に卒業論文で研究した文学者中野重治のことを思い出していた。読書、思想、戦争……。
中野重治は戦前治安維持法容疑で、2年以上も獄中生活を強いられた作家である。その彼が刑務所から妻であるまさのに宛てた手紙の一部少々長いが引用したい。

いつだったか出来るだけ書物を読むようにということを書いたかと覚えている。読書ということは非常に大切なことだ。「自分は書物から学んだ」と言った作家や、「自分は美術館で会得した」といった偉い画家等もある。(中略)私はお前さんのしきりに読書することをのぞむが、しかしたくさん読んで少なく考えるよりは、少なく読んで多く考える方がいいと思う。ダーウィンの自叙伝の中で、「読んだり見たりしたことを、かつて考えたこと、また将来考えるであろうことに直接結びつけるようにし、このクセを五か年間の航海中続けた」という意味のことを書いていた。見聞したことを他のことに結びつけて考えるということ、これが中々よいことなのだ。このクセがつけば、たとえば何かの事務的な報告書を調べていて、それとは全く別種のことについてのステキな思いつきを思いついたり、どうしても分からなかったことがフイと何のゾーサもなく分かったりする(中略)そういう風に、本を読むなら読みなさい。

中野重治は獄中に入ってから超人なみの読書をこなした。そして当時の政府に都合の悪いことが隠ぺいされた新聞・雑誌の文章から、的確に真実を類推していった。獄中にいながらにして、当時の大政翼賛会下の新聞記事から戦争遂行へ向かう雰囲気、侵略戦争の枠組みについて分析を加えていた。つまり誰しもが理解出来る程度の文章の裏の裏まで読むことの重要性を説いたのだ。
坂本一郎氏の論文の中で、「包括的な生活指導」として多くの本の紹介がなされているが、しかしそれを消化するだけの指導で終わってしまってはいけないのではないか。
確かに今後有事の際情報統制がなされるにしても、過去の大戦のような統制が徹底するとは思えない。しかしいざというときの判断力は確保しておきたい。そのためには普段から多くの本に触れ、様々な情報を整理・分析し、まとめていく力を養う中で、それとは全く逆にわずかな情報から真実を掴んでいく想像力を培う指導が求められるのである。
文学者であり、熱心な読書家であった中野重治が、「少なく読んで多く考える」ということを強調した意味を今週ゆっくりと考えてみたい。

『YERROW CAB〜成田を飛び立った女たち』

家田荘子『YERROW CAB〜成田を飛び立った女たち』(恒友出版 1991)を読む。
日本を離れ、ニューヨークに出掛けた女性(イエローキャブ:「すぐ乗せる」「誰でも乗せる」というタクシーが由来)のドラッグやセックス漬けの淫乱な生活を暴露的に描いたルポルタージュである。内容的にはあまり面白くなかった。しかし東京は人間関係のしがらみに縛られており、自分の可能性を試すにはニューヨークしかないというインタビューを受けた女性の動機には考えるものがあった。住基ネットが定着し、今後ますます「外れた」生き方がしにくい世の中になったとき、アメリカにはーその大部分が幻想であるにせよーますますの期待が向けられるのだろう。

フセイン大統領のテレビ演説

本日の東京新聞で紹介されていた、フセイン大統領のテレビ演説の一言が、「前後の文脈は抜きにすると」正論を貫いていて格好良かった。
イラン・イラク戦争終結記念日における演説で、彼は次の言葉で米国の姿勢を警告したそうだ。ただ、原文を探したが見つからないので、正確な意図は不明である。

脅しで民衆を奴隷にしたがるごう慢な乱暴者が、自分の国の人々の平穏を望んでいるのなら、国際法に基づいた対等な対話によって他の国の人々を尊重しなければならない

話は変わるが、ここ数年のフセイン大統領による対アメリカ外交政策はかなりの部分でうまくいっていると思う。あれほどの侵略戦争を仕掛けておきながら、今回もアラブやヨーロッパの支持を十分に取り付けている。今後何度も国際政治の舞台に出てくる政治家であろう。残念なのは、日本におけるサダムフセイン像があまりにアメリカ寄りの「悪の大将軍」というイメージに固定化されていることだ。別にサダムフセインをかばうつもりはないが、ステレオタイプなイラクの国家像から早く脱しないと、中東を見る判断力を誤るであろう。

amlより転載

こんな社会はもうイヤだ 治安と管理の現在を考える討論会へ!
発題:宮本弘典さん(関東学院大学教授、刑法)
・8月18日(日)午後3時〜
・日本基督教会館6階(地下鉄東西線早稲田駅下車)

会場費400円今の社会は果たして「自由」なのか? 確かに100年前と比べれば格段に「自由」になっている様に思える。私たちは、昔よりは自分の意志でもって行動し、色々な生き方をすることができうる。

だったらこの社会は、いい社会なのか。そうも言い切れない気がする。いや、むしろ最近では、そう思えないことのほうが多くなっていないだろうか。
日本社会は出口なしの不況にあえいでいる。これから抜け出るために国家や財界は必死である。働く人たちも職を確保するのに懸命である。社会に余裕がなくなりつつある。
そうすると弱い者から切り捨てがはじまる。監獄や精神病院では、収容されている人をますます閉じ込めておこうという動きが出ている。具体的には、無期懲役囚を終身刑化していくことであったり、心神喪失者医療観察法案という名の新たな保安処分の導入である。

また、過激派・暴力団・オウム・「三国人」など、少数派に対する圧力も厳しくなっている。普通では考えられない微罪での逮捕など、当たり前。その団体に属していたり、属性を持っているだけで犯罪、といわんばかりのような状況ができている。

その一方、みんなに等しく管理の輪がかけられつつある。この8月5日に施行予定の住民基本台帳ネットワークでは、日本国民全員に11桁の番号が割り振られ、個人情報を国家が集権的に管理する時代がはじまろうとしている。
そして、最大の人権侵害である戦争、これに国民を動員する有事法制を制定しようという強い動きがある。

ここにも書き切れないことが沢山あります。こうした動きをどう捉え、どうしていけばいいのか。まずは、自分にとって身近なことから考えていけばいいと思いますが、では全体として社会はどういう方向に行こうとしているのか? それを考える場を持ちたく、呼びかけます。

第1回目は、関東学院大学の宮本さんからお話を頂き、討論していきたいと思います。こうした場を何回か持ち、より大きな輪を作り出していきましょう。ぜひご参加下さい。

呼びかけ人:のびた(救援連絡センター)、ぺぺ長谷川(交流家)、なすび(山谷労働者福祉会館)、星山京子(牧師)、小田原紀雄(牧師)
連絡先:救援連絡センター( 03-3591-1301、kyuen@livedoor.com)

『プロ野球場外乱闘!』

駒田徳広『プロ野球場外乱闘!』(角川oneテーマ21 2001)を読む。
おそらくはゴーストライターの手によるものであろうが、なるほどと思う場面も多かった。野球は国民的スポーツと言われて久しいが、旧来の日本人的な習慣、風習を色濃く反映したものである。そのため野球を論じることが日本社会を論じることに直につながる構造になっているので、どうしても行き着く所は日本文化論的な内容になってしまうのだ。それは全4章で構成されていて、第1章が「組織の中で生き残るには」「黙っていれば年棒はアップする」という日本人の行動原理から話は始まり、最後第4章では「負けているときにこそ指揮官の器が分かる」「引き際に美学を感じさせた監督」という日本人論で終わることからも伺い知れるであろう。
何か文章変……。