投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『大学活用法』

岩波書店編集部『大学活用法』(岩波ジュニア新書 2000)を読む。
大学教授から評論家やカメラマンまでが大学での教養の勉強から、大学は不要論まで自由に意見を述べている。まあ高校生にとってありきたりな進学雑誌よりはためになるものであろう。全体的には面白くなかったが、中で漫画家の竹宮惠子さんと佐高信氏の文章は興味深かった。竹宮さんはマックを使いこなす漫画家として過去にマック関連の雑誌に取り上げられたことがあるので、作品は読んだことないけど名前だけ走っていた。しかし彼女は徳島大学の学生時代に大学紛争に参加するためと、一年間漫画家の仕事を「休業」したという経緯の持ち主である。そして大学についてこう述べる。

私にゆっくり考える時間を与えてくれたところでした。学問という意味ではあまりしていないのですが、そうでない勉強をいっぱいさせてもらったし、一年間大学紛争の勉強をするためにマンガを描かなかったくらい、学ぶことはたくさんあったのです。そんなふうに自分を変える場というものが大学にはあったのです。大学でいろいろな人生勉強、社会勉強をしたことが自分のマンガの底の基礎をつくっていると思います

佐高信氏は自分の大学の授業以外の講義の「盗聴講」を勧める。そして大学で何を学ぶかという自問に対し、「ムダを学ぶ」と答える。このムダの意味することを学ぶことは難しい。そして真の意味でのムダを教えることは本当に難しい。

『セックス神話解体新書』

小倉千加子『セックス神話解体新書』(ちくま文庫 1995 原著:学陽書房 1988)を読む。
上野千鶴子をして「こんなに芸のあるフェミニストはいなかった」と言わしめた作品である。彼女は男女間の性的奴隷制度に近い差別を、生物学的な差別に還元せず、文化的な心理的なジェンダーであると断言する。そしてさまざまな地平に存在するセックス神話を見事なまでに「解体」していく。その論理展開の勢いには多くの男性は圧倒されるはずである。

小学校で初潮指導が行われていますが、これは女子だけを対象として行なわれます。つまり男女隔離教育です。そしてその際、どのように初潮を指導するかというと、必ず「これでもうあなたもお母さんになれる」「赤ちゃんをうめる身体になれる」「素晴らしいこと」という母性過度の強調が行なわれます。初潮は「おめでとう」という言葉で迎えられなければならない、というメッセージには、女の子に母性性を肯定させる意図が込められています。生理のマイナス面は決して教えない。そして男の子は生理についてほとんど知らない。母親になること、出産することは素晴らしいというイデオロギーの押しつけで、その危険性が指摘されることはないのです。

このような勢いで性教育、夫婦間のセックス、性の商品化、男の性欲などの諸相を切っていく。しかしその勢いがあまりに良いので、ほんまかいなと思えるような箇所もある。私が男であるという点も考慮に入れつつ、「ジェンダーは、実体というよりは人々の頭の中にあるイメージにすぎないのです。」と言い切るのは少し無理があろう。神話の解体の半分くらいは納得できるが、やはり男女の脳科学の分野における実体的差異は存在するのはないか。

この点はアランピーズ&バーバラピーズ『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社 2000)の中で男女の生来の興味・関心・行動の差異について詳しく論じられている。しかし面白い本なので、是非一読してみることをお勧めする。単に小倉氏の論が科学的な見地に立って正しいか正しくないかという点だけでなく、ものの見方を変えることで社会にはさまざまなイデオロギー装置が存在しているのだという発見ができる。また小倉氏は心理学を専攻しているだけあって心理学のテキストとして読んでも面白いであろう。大学時代にかすかに習った記憶がある「アヴェロンの野生児」や「アマラとカマラ」の話が改めて参考になった。

『村上朝日堂の逆襲』

村上春樹『村上朝日堂の逆襲』(朝日新聞社 1986)を読む。
マスコミにほとんど出ない春樹氏の私生活が垣間見えて興味深かった。特に彼が少し使用しただけのボールペンがたまっていき困っている様子が面白かった。

 五十本のボールペンは夜の雪のごとく静かに我が家にたまっていったのである。引っ越しのたびに僕はそのボールペンの束を前にして、心の底からうんざりすることになる。五十本のボールペンなんておそらく僕には一生かけたって使い切れないのだ。しかしそれではその不必要なボールペンを邪魔だからといってあっさり捨ててしまえるかというとこれができない。(中略)ときどき「もうインクが固まって書けなくなっているのがあるんじゃないかな」と期待して一本一本ためしてみるのだが、最近のボールペンは質が向上したのか、そういう例はほとんど見受けられず、がっかりしてしまう。

私自身物が捨てられなくて困っている。一間しかない狭いアパートなのに、物であふれかえっているのだ。文房具箱の中にも幼稚園時から使用している消しゴムやらチビた鉛筆を再利用するためのもの(何て表現すればいいのだろう?)やらごちゃごちゃ詰まっている。春樹氏のいうインクが固まったものがあるのではと期待して試してみるという点に特に共感を覚えた。

自民党議員 野中広務

本日の東京新聞の特集で自民党議員野中広務の戦争に関するインタビュー記事が載っていた。最近は小泉首相の郵政改革に対する牽制役といったイメージでしか報道されないが、自民党内護憲派としてなかなかまっとうなことをいうと思った。少し長いが引用し紹介したい。

戦後日本が平和と民主主義得たというのは非常に大きかった。しかし、それが本当に健全にその道をたどってくることができたのかどうか常に考えていかなくてはならない。過去をおろそかにすれば未来はないのだと常に思いながら。戦争を知らない人にしたら「年取った人間が何をいつまでも過去をひきずっているのか」という気持ちもあるかと思う。しかし、多くの有能な人材があの戦争で亡くなったという過去を風化させてはならない。そのために私はかたくなだと言われても、頑固に生きていく。時にはブレーキを踏む勇気を失ってはならないという使命感のようなものを持っている。

日中関係でいろいろ言う人はいるが、わが国は中国本土に軍を進めたわけですよ。そのことを厳粛に考えて過去の歴史に忠実であってもらわないと。今の風潮は、自衛隊が海外に出ていかないことが自衛隊としての責任をまっとうできないような風潮があることを、私は恐いと思う。その意味で自衛隊が他国に軍事力を行使しないことが、むしろ自衛隊としての最高の誉れであると思ってほしい。

家族に思いを残しながら戦争に行った者と戦争を計画した者はきちっと仕分けされるべきだと思う。昭和53年にA級戦犯を祭って以来、昭和天皇はお参りになっていないとか。そういうことなどを考えると靖国の持つ問題とは、戦争に敗れた後に総括されていないことにつながる。A級戦犯が合祀されたことで戦争責任をあいまいにしてしまった。やはり大変な戦争の責任をきちっとしておくことは必要だと思う。そうでないとこのまま不幸な議論を引き継いでいくことになってしまうという切羽詰まった気持ちが私にはある。

われわれの少年時代は「欲しがりません勝つまでは」と、貧困に耐え、戦争遂行のためにすべてを犠牲にしてきた。今、われわれは衣食住はどうにか確保されている。やはり過去の中から今日があるということをよく考え、過去をおろそかにしないで将来に目を向けてほしいと痛切に思う.繰り返し言うが、過去に目をふさいだらいけない。

ちょうどドイツのヴァイツゼッカー大統領が言った言葉を思い出させる。彼自身の政治活動についてこれまで注目してこなかったが、彼のいう「切羽詰まった気持ち」がどのような行動につながっていくのか期待したい。

読書と豊かな人間性レポート

読書と豊かな人間性レポート

本日の東京新聞の朝刊の特集記事(裏面を参照)を紹介したい。この中で、東京新聞論説委員である塚田博康氏は戦争の反省に立って、そして学習そのものの根幹は読書にあり、読書によって物事を理解し、思考し、議論をすることの大切さを強調している。
確かに「子どもの読書活動の推進に関する法律」の制定に見られるように、学校教育現場では現在読書の意義が強調されている。司書教諭の必置など子どもに読書する機会を増やすための推進体制、広報活動、財政上の措置など確実に進んできている。
しかし、このような文科省による政策はしばしば現場の意向を越えて強制力を持って施行されてきたことを思い返す必要があるのではないか。例えば奉仕活動(ボランティア)の意義を生徒に強調することはいいことであるが、それが一度文科省の政策に乗った途端、内申書への記述事項になり、そして授業の単位に組み込まれ、最後には強制といった経緯をたどってきた。また同様に総合的学習時間や日の丸君が代、強制クラブ活動なども当初の思惑を大きく外れてしまった。
大切なことはまず何よりも現場の責任者である教員が読書を楽しむことではないか。授業も部活動も同様であるが、まず教員が楽しみ、そしてその楽しみを生徒に伝えてみたいという人間としての素直な感動が原点にならなければならない。そうした楽しみのないところで、いくら読書の利点が強調されたところで、真の「人格形成」にはつながらないであろう。
私自身夏休みに入り、2日に1冊は本を読んでおり、今読書の面白さを堪能している。現在は寝る前に田辺聖子訳の源氏物語の世界に浸っており、俗世の煩わしさを少しでも忘れることができる読書の時間が楽しい。2学期に入ったら授業の中で源氏のあわれの世界観に少しでも触れてみたい。