投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』

先日に続いて村上春樹・安西水丸『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(朝日新聞社 1997)を読む。
私自身がここのところ、急に秋めいて少々体調が下降気味なことに加えて、大学での(ツマラナイ)授業が堪えたのか、本を読んでもあまり感想がなかった。あえて言うならば空中浮遊の夢に関する話が面白かった。空中に浮遊するという夢は、人によってかなりのバリエーションがあるという話だ。空に浮かぶ夢というのは、フロイト的に解釈すれば性的な事柄と関係が深いというのだ。

私自身思えばしばらく空に浮かぶ夢を見ていない。小学生の頃は藤子不二夫の『パーマン』という少年ずっこけヒーローマンガの影響だろうか、マントをつけて飛ぶ夢を何回か見た。しかし足がぬかるみにとられうまく飛び立つことが出来ずもたもたしているうちに朝を迎えていた記憶がある。
大人になった最近は、といっても最後に見たのは1年以上前だと思うが、体重の掛かっている両足をそろりと持ち上げると、地上から1メートルくらい上空を水に浮かぶようにふわふわ漂っている夢を何回か見た。そして前に進もうと思っても、水の中のように体の動きが重くて、なかなか前に進むことが出来ないのだ。しかしこれとは逆にものすごいジャンプ力が付いた夢をこれまた何回か見たことがある。一歩で2キロくらいジャンプすることができる能力を身に付けた私はわずか数歩ジャンプしただけで横浜から新宿まで移動出来るのだ。

たしか高校の時だったか、授業中に先生が雑談の中で夢日記を付けていたという話を耳にし、枕元にノートを用意していたことがある。そして起きたらすぐに忘れないうちに夢の内容をまとめるのだ。すると何日かすると夢をある程度系統立てて理解することができ、夢の内容をコントロールすることが出来るというものだった。しかし当時は寝坊ばかりしていて、朝悠長にノートにまとめることがままならず3日坊主で終わってしまった。

「豊かな人間性」

「豊かな人間性」という題目を与えられて、私はすぐに「感情豊かな心優しい人間」といった金八先生や灰谷健次郎的な暖かい世界を思い浮かべてしまう。おそらく日本人の大半が私と同じようなイメージを想起するであろう。しかし現在求められる読書教育はそのような固定化されたイメージを脱却し、壊していくようなもっと根源的なものである。

東京新聞2002年8月17日の夕刊に掲載されたコラム「玉手箱」の一文を紹介したい。

W杯サッカーで全日本を率いたトルシエ監督が面白い日本論を語っていた。『道路を日本人が横断しようとするとき、車が全く来なくても信号が赤だとだれも渡ろうとしない。こんな精神構造では真の国際化はできないし、サッカーも世界の頂点に立つのは難しい』」「日本人はなぜか法律の前で思考を停止する。赤だと止まり、青だと進む。赤で渡るのは“みんなで渡る”時だけ。」「江戸時代から日本は「子曰(のたまわ)く」の暗記教育が全盛で、戦後も自分の頭で考える教育がなおざりにされてきた。自分の行動は自分で考えたい。(史)

日本人の詰め込み教育を批判したありきたりな文章であるが、私はここに求められる読書教育の原点があると考える。真の「豊かな人間性」とは暗記に強いことでも、計算に強いことでもない。あくまで多様な社会の中で、自ら情報を取捨選択し、自ら判断し、自ら行動することである。戦後の学校教育は長い間、行き過ぎた検定教科書等によって「厳選」された情報のみを生徒に与え、チャート式の授業によって「正しい判断」を教員が与え、進路指導や生徒指導においては「あるべき生徒像」が象徴的に示された。しかしこのように過保護に生徒を育てること自体が破綻を来したのだ。コピー機や携帯電話、パソコン等情報を得るツールは20年前と比べてもはるかに充実してきた。しかし一方で情報の過多が主体的判断の欠如を生み出していることはマクルーハン等の社会学の分野で分析されている。

90年代にオウム真理教事件が世間を騒がせたが、これをオウム真理教固有の事件と見るならば、単なるカルト集団の問題に片付けられてしまう。しかしなぜ多くの若者がオウム真理教に入ってしまったのかと社会的な視点で眺めてみると、そこには正答にただうなずくだけの詰め込みの教育の弊害が見て取れるだろう。自ら考え判断するという人間として当然の主体性が欠けてしまっているのだ。

私達はこれまで読書というと文章理解、小説の味読といった国語教育の一環としてしか捉えてこなかった。つまりこれまでの学校教育の中で補助的、補完的なものと位置付けてきた。しかし、クラッシェンの「自由読書」にも展開されているように、読書はテレビ以上に作文の能力を向上させ、作文は深い思索と問題解決能力を増進させることが調査の上でも明らかなった。今後の読書教育は授業の補完としてではなく、人間の主体的判断力や行動力を育てる第一義的なものとして実践していく必要がある。

フェアレディZ

最近日産のフェアレディZのテレビCMを目にする。
スカイラインGT-Rやスープラとは違った本物のスポーツカーという雰囲気のCMであり、好感が持てる。特に子どもがミニカーで遊んでいるシーンが挿入されるのがよい。過去はよく知らないが、やっと日本にもランボルギーニのような憧れを持つ車が登場したのかと感懐を持って眺めている。Zというローマ字は個人的にはあまり好きではないが、一生のうちに一回は、いわゆるスポーツカーでサーキットをぶっとばしてみたいものである。

『読書はパワー』

聖学院大学での学校図書館司書教諭講習の「読書と豊かな人間性」の講義で課題に指定された本、スティーブン・クラッシェン『読書はパワー』(金の星社1996)を読んだ。
“free voluntary Reading”
クラッシェン氏は語彙レベルや内容にとらわれず、生徒が自由に読みたい本ム漫画本、ティーロマンスを含むーに没頭する「自発的自由読書」を提言している。そして多く読めば読むほど、直接的な国語指導以上に、読解、文体、語彙、綴り、文法の実力がつくことを明らかにしている。またそうした読書環境を支える出版環境、学校設備が豊かさが、読書資料を入手を容易にし、リテラシーはさらに発達することも検証されている。そして楽しい読書こそが更なる読書への興味を沸き立たせる唯一の方法だと述べる。

確かに私自身の経験を鑑みるに指示されて読んだ本ほど印象は薄く、つまらないものであった。むしろ気の赴くままに推理小説、バイクの歴史、古典文学、社会問題、恋愛小説とジャンルを問わず自由に読んた本の方が印象が強い。そして軽い本を読んだという経験がさらに難しい本の関心へとつながっていったことも確かである。教員は教科書に書かれている評価の定まった本を薦めてしまいがちであるが、それ以上に生徒の自由な読書環境を創ることに専念した方がよいことをこの本は教えてくれる。

『法科大学院』

山田剛志『法科大学院』(平凡社新書 2002)を読む。
ロースクールについての基礎的な事柄が押さえられた。今度の秋の臨時国会でほぼ原案通りで可決する模様であるが、来年度以降も法学部出身でない者への受験のあり方や、司法研修所制度の改革など、混乱が生じそうな模様である。私は法曹人口が増えるということに基本的には賛成であるが、民事法中心の実務家養成に重きが置かれている点が気掛かりである。私は法律は全く分からないが、中間まとめ案によるとロースクールでの法律基礎科目群60単位のうち公法系には10単位しか振り分けられないというのだ。また科目も実務家養成のための科目に厳選されているため、いわゆる法学チックな法哲学や法思想史、また総論的な授業は見当たらない。2年時から法律文章講座といった司法研修所のカリキュラムが前倒しされてしまっている。しかしこのロースクール制度によって様々なキャリアを持った多様な人材が法曹界で活躍する一助になれば良いのでは。