投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『斜陽』

太宰治『斜陽』(角川文庫 1950)を読む。
よく分からないというのが正直な感想だ。おそらく戦前の「文学界」を舞台にした、プロレタリア文学陣営と新感覚派の間で行われた文学論争を揶揄しているのであろう描写も数多く出てくるが、いずれも頽廃的でとりとめない。
主人公かず子がローザ・ルクセンブルクの本を手にとり、「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」と心中激する場面があったかと思うと、レーニンの本を「表紙の色が、いやだったの」と友人に読まずに返却する場面がある。また「革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。(中略)こいしい人の子を生み、育てる事が、私の道徳革命なのでございます。(中略)革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要なようでございます。いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です」と最後に述べる場面がある。おそらく戦後直後の共産主義運動を批判的に視ているのであろう。
爵位に裏付けられた旧体制と戦後民主主義の挟間に放り込まれた犠牲者の家族の物語と言えばよいのであろうか。言い換えるならば、あまたの社会主義や民主主義、政治党派や宗教からの守備範囲のどこからも外れてしまう存在に光を当てた作品と位置づければよいのだろうか。正月ボケもあってかこれ以上の考察は難しそうだ。

「マルクス神話」

昨日TBSラジオのアクセスという討論番組の中で、宮崎哲哉と宮台真二の二人が日本の左翼陣営の中の「マルクス神話」について触れていた。三島由紀夫が全共闘の討論集会に呼ばれて、「君たちが天皇制さえ認めてくれれば反米という点で連帯できるのだが」という有名なくだりを踏まえて、反米の基軸に天皇制を据えるのか、マルクス主義を据えるのかという「微妙」な差異が戦後の日本の価値観を形成していった。そして更に親米愛国という摩訶不思議なスローガンを掲げた自由民主党が政権に居座ったために、憲法論議も自衛隊の是非もいい加減になってしまったという内容であった。一部しか聴いていないので、どういう文脈で話されたのか不明であるが、新左翼と新右翼の関係という「奇妙」な問題について少し考えさせられた。私自身政治的には三島を評価しないが、文学的に三島を分析していくことで見えてくるものがあると感じた。三島と全共闘という30年以上前の古い問題について今年ゆっくりと考えてみたい。

『音楽』

三島由紀夫『音楽』(新潮文庫 1970 中央公論社 1965)を読む。
ある精神分析医が冷感症の女性の心理に迫る手記を公開したという形をとった作品なのだが、強引な推理小説的展開に面白みも半減されてしまっている。精神的なインポテンツになってしまい、性に対する期待が大きいだけに反動として悲嘆にくれてしまう若い男性の描写は真実味があったが、他は凡庸な推理小説と大差はない。

Happy New Year!

あけまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
さて昨年は北朝鮮問題や大洋から漂着した「たまちゃん」騒動に明け暮れた一年でしたが、今年の干支である「羊」は、古代中国において善美の象徴であり、義・祥など縁起の良い漢字にも垣間見えます。今年が皆様のさまざま場面においての飛翔の年となることを願っております。
How many “sheep” in the text?

今年の元旦は神奈川と静岡の県境にある足柄峠で迎えた。残念ながら雪と曇天のため初日の出を見ることは出来なかった。その後伊豆半島の先端に位置するの石廊崎へ向かった。下田で一泊して、翌日は天城峠を越えて富士山を経由して帰ってきた。ちょうど大晦日の紅白で石川さゆりが「天城峠」をトリで歌ったこともあってか、歌詞にもある「浄蓮の滝」は観光客でいっぱいであった。歩きながらつい「浄蓮の滝ぃ♪」と口ずさんでしまう(笑)