陳舜臣『小説一八史略(1)』(講談社文庫 1992)を読む。
殷の紂王から秦の始皇帝までの約800年を概観したものだ。『史記』と重なっている部分も多く、有名なエピソードばかりである。「臥薪嘗胆」で有名な夫差と子胥のエピソードや始皇帝の統一までの生い立ちなど知っているようで知らない興味深い話が多かった。陳舜臣氏は中国における天下は一つが理想であるという思想は秦の時代に生まれたと指摘する。国土が大きく、人口も莫大で言葉も地域差が大きいゆえに、天下は一つであるべきだというナショナリズムが強くなることは歴史が証明している。確かに現在の中国の台湾への政策を見るにつけ、毛沢東と蒋介石の二人の関係や現在の世界情勢だけでは説明しきれない。人民の心の奥底に眠る中国観を分析していく必要があるだろう。
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埼玉県知事
土屋埼玉県知事が当然のごとく辞任したが、この旧い土建屋体質にまみれた土屋王国の後を継ぐのは大変であろう。だが早くも自民党筋からは後継者として糸山英太郎氏の名前が挙がり始めている。彼のホームページを見るところ、今年の6月のコラムでは「私は今後の埼玉県の動向にはこれまで以上にきっちり目を光らせてゆくつもりだが、どうぞ善良で勤勉な埼玉県民の皆様も自らの良識に照らして勇気を持って立ち向かって頂きたい。もしそれでも万一またこのような破廉恥な独裁者が再選されかねない状況になれば、やむをえず私も第二の故郷である埼玉県のために身を挺してこれを阻止する覚悟はできている。」とやる気満々である。中曽根氏の秘書を努めて後、国政に出馬し、石原慎太郎氏とも「憂国の士」として仲が良いようだ。埼玉スタジアムに対する批判などまともなことも発言しているが、どうも「愛国心」をがなり立てる時代錯誤な経済観をお持ちのようだ。
今こそ日本人はナショナリズムに燃え、ソニー・JAL・三菱重工など日本の宝を守るために猛然と買いにいくべきなのだ。堪えきれずにあおぞら銀行を外資に売り渡そうとしている愛国心のかけらもない御仁も見受けるが、私に言わせれば問題外だ。日本の宝と言える企業が売られている様をただ見ているだけでは日本人とはいえない。2003年4月25日
『蓮如』
五木寛之『蓮如』(岩波新書 1994)を読む。
多分に小説的なタッチで蓮如を描いているが、その分実直な親鸞との対比が見えてきて楽しく読めた。この手の本にありがちな「ある個人を歴史を動かす巨大な司祭のように見なす」ことを作者はきっぱりと否定している。ものの本には蓮如の活躍のおかげで加賀の一向一揆が誕生したと書かれており、偉大な宗教家ひいては歴史上のヒーローを想像しがちである。しかしある一個人が歴史をつくったという思想はファシズム的な発想につながり危険であることは言うまでもない。五木氏も次のように述べる。
蓮如が北陸の地に渦巻く雑民のエネルギーに翻弄されたのだとは考えられないでしょうか。そこではスーパーマンのように見える蓮如も、一個のシンボルにすぎません。北陸の地底からまさに噴火しようとしていた地下のエネルギーが、近江から蓮如を招きよせ、そして蓮如を核として巨大な増殖がおこなわれ、疲労しつくした蓮如を破れた旗のように再び投げ返した、こういう想像は大胆すぎるでしょうか。
私にはどうしても一個人の力が一方的に歴史を創り出すとは思えないです。蓮如の権謀術策の実力を、私たちはあまりにも過大評価しすぎているのではないか。蓮如もまた時代の登場人物のひとりにすぎないのですから。
この本を読みながら浄土真宗の歴史的位置付けについて考えた。浄土真宗は別名「一向宗」とも呼ばれ、身分体制の序列を固定化する封建体制を覆す「過激」な思想である。しかしこの宗教は日本の思想史においてどのように位置づけられるのだろうか。適当な参考書を探してみようと思う。
『議員秘書』
龍崎孝『議員秘書:日本の政治はこうして動いている』(PHP新書 2002)を読む。
1980年以降の経世会の盛衰を追いながら、秘書の立場から政治の舞台裏を眺めるという視点で書かれている。「おやじ」である議員の落選で自らの立場もなくなってしまう存在である以上、政策秘書といえど純粋な政治活動よりも議員の延命活動に力を注がざるを得ない。秘書という人間の目を通して自民党の舞台裏を見ると、国会政治というものが金と人を操縦する政治屋に仕切られてしまう現実が如実に見えてくる。
『砧をうつ女』
第66回芥川賞受賞作、李恢成『砧をうつ女』(文芸春秋 1972)を読む。
朝鮮人学校の問題を研究集録にまとめようと読み始めた本である。芥川賞を受賞した作品であるが、日本の小説にありがちな展開でつまらなかった。しかし、同作品に集録されていた『半チョッパリ』が面白かった。帰化に悩む大学生が主人公なのだが、日本人として学生運動に参加出来ず、かといって在日の祖国運動にも参加出来ず、ペーパー韓国人である「半チョッパリ」の位置の悪さに辟易している主人公悩みが吐露されていた。子どもが反対しているにも関わらず帰化しようとする父との対立は国家の分裂が家族の分裂に投影されてしまう現実を表していた。またラストシーンで主人公祖国ソウルに行くのだが、そこでは「倭奴」と捨て台詞を吐かれ排斥されてしまう。しかし主人公は最後自らの「半チョッパリ」という立場を肯定しようとする。
自分を愧じる気持にはげしく襲われていた。半チョッパリの誇りを取り戻さねばと考えた。いまはどのようにも振舞える自分を僕は確認しようと思うのだ。一台の自転車にプラスチック製の石油カンをつんで走り出すことも、この森のざわめきに身を投じることも、まったく自由であった。それは生と死を自分が支配している実感で僕は幸福にした。めくるめくような思いが躯を走っていた。
祖国よ、祖国よ! 統一祖国よ! 僕は心から叫んだ。いま僕は死ぬことも生きることもできた。そして、半チョッパリとして祖国にそのように叫びかけることも自由であるにちがいなかった。
久しぶりにどきどきする小説であった。日本と韓国の間で、市民と非市民との間で、社会人と大学生の間で揺れ動く主人公の自己肯定はどちらに属することでも、どちらを捨てることでもなかった。このような生き方が今の時代こそ求められている気がする。
