投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『会社人間はどこへいく:逆風下の日本的経営のなかで』

田尾雅夫『会社人間はどこへいく』(中公新書1998)を読む。
組織分析や経営管理論を専攻している著者ならではの日本の会社人間なるものの的確な分析がなされている。

組織の経営管理としては、勝手に働く上澄みと下に沈んだ沈殿槽だけに二分化してはいけない。働き蜂は、2割の優秀な蜂と、2割の怠慢な蜂と、そして6割の中間層で構成されている。しかし下の怠慢な2割の蜂を間引いても、残りの8割の中から更に下の2割が働かなくなるという有名な研究がある。著者はその6割の中間層が一番会社への忠誠心が強いことに着目し、中間層を会社にすがるしかない生き方を強い、会社人間に仕立て上げることが、会社にとって好都合であると説く。

また尾高邦雄氏の一連の研究(『日本の経営』中央公論社)による会社への帰属と組合への帰属の研究が興味深かった。それは会社員の企業と組合に関する帰属は対立するものではなく、両立的、または重層的であるとの見方であり、労働組合の一員でありながら、企業の従業員として、熱心に企業のために働くという現実主義的態度にその後の高度成長期における企業発展のバネともいうべきダイナミズムを読み取ることが出来るのだ。

『阿修羅のごとく』

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森田芳光監督『阿修羅のごとく』(2003 東宝)を観に行った。
向田邦子原作の映画化で女性の「恐怖」がたっぷり描かれていた。夫の不倫の疑惑が高まれば高まるほど笑顔があふれてくる。また姉妹の不幸を心の底では望み、妹が不幸になると優しく接することが出来るという女性の心理も巧みに描かれていた。淡々とした日常の中に張り巡らされた人間関係の複雑さに、改めて鈍感な私は怖さを感じざるを得ない。

『韓国で儲ける』

ケヴィン・キーティング『韓国で儲ける』(新潮社OH!文庫2000)を読む。
韓国在住の米国人の目を通した多岐にわたる韓国の商慣習についてのコラムである。この手のアジアを紹介する西欧の文献に共通してありがちだが、一方的な視点で韓国を捉えており、当の韓国人が読むと隔靴掻痒たる思いであろう。

『爆笑問題とウルトラ7』

爆笑問題ほか『爆笑問題とウルトラ7』(新潮文庫2002)を読む。
ほとんど笑いはなく、中身の大半は、立川談志や橋本治、山田洋次等と爆笑問題太田との芸術論である。単なる文学論、映画論ではなく、テレビという出れば出るほど大衆に晒され、自らの芸が枯渇していくシステムの中でしぶとく生き延びていくための芸術のありようを模索している。

『歴史を変えた誤訳』

鳥飼玖美子『歴史を変えた誤訳』(新潮社OH!文庫2001)を読む。
戦後の日米の政治・軍事・経済に関して、日米の委員会の取り決めや条約について誤訳や故意の意訳がなされ、当時の与党自民党に都合が良いように国内で解釈されてきたという事実には開いた口が塞がらない。例えば日米ガイドラインの英語テキストでは

Cooperating as appropriate,they will make preparations necessary for ensuring coordinated responses according to the readiness stage selected by natural agreement.

の部分は著者によると次ぎような訳になる。

「日米両国政府は、適切に協力しつつ、合意によって選択された即応態勢段階に従い、日米間の連繋した対応を確保するために必要な作戦準備を行う」

しかし政府訳は野党や米国追従を批判する保守勢力に配慮してか、焦点を誤摩化した次のような訳になっている。

「日米両国政府は、適切に協力しつつ、合意によって選択された準備段階に従い、整合のとれた対応を確保するために必要な準備を行う」

この他「周辺事態」や「同盟」「指揮権」など様々な日米安保に関する軍事用語が憲法の枠内であるかのごとく意訳されている。しかし訳語によって憲法をないがしろにするとは国民を愚弄している以外何物でもない。

また「オーク」という語は一般に日本で「樫」と訳されているが、それは全くの誤訳であり、正しくは「水楢」雑木であるという指摘は思わず「へえ~」だった。