投稿者「heavysnow」のアーカイブ

エビアレルギー

今日の夕飯は、子どもの睡眠リズムのおかげで時間がずれてしまい、一人近所の回転寿司のお持ち帰り用のセットを食べることになった。途中、貝らしきネタを口にしたところ、口の中がぷちぷちとかゆくなってしまい、2時間経た今も違和感が残っている。数年前から同じ症状になることがあり、ネットで調べてみたところ真相が判明した。どうやら貝らしきものの正体は炙り生エビで、私はエビアレルギーなのだそうだ。甘エビもエビフライも全く平気なのだが、唯一生エビにだけ反応がでるようだ。日本人の7〜8人に1人が持っている最も多いアレルギーだということだ。好き嫌いが全くなく何でも残さず食べるのが信条だっただけに、エビアレルギーという事実は少々ショックであった。

『精神科医を精神分析する』

佐藤幹夫『精神科医を精神分析する』(洋泉社 2002)を手に取る。
著者は養護学校教員を長く務めた経験から、精神科医に対する拭い難い不信感が堆積しており、テレビや雑誌で犯罪者の心理をさも分析的に語り、異常者を意図的に作り出そうとする「タレント精神科医」に強い怒りを覚えるということだ。斎藤環、町沢静夫、斎藤学、和田秀樹、福島章、小田晋のそうそうたる6人に対して堂々と反論を展開する姿勢は評価しても良いだろう。しかし、30頁ほど読んだところで、あまりに一人称的な語り口に嫌気がさして読むのを止めてしまった。もう少し編集サイドで読ませる工夫が必要だろう。
著者が批判の対象としてあげている一人の斎藤学(さいとうさとる)氏は、東京新聞にも連載コラムを持っており、よく目にする精神科医である。犯罪の病理が全て個人の歪んだ心理に求められる、と鮮やかな分析をする人だなと思っていたのだが、少し注意して読む必要がありそうだ。

「市町村合併をしない宣言」

今日の東京新聞の朝刊に、「市町村合併をしない宣言」で有名な福島県矢祭町の町商工会の珍しい誘客サービスが紹介されていた。大型店に客を奪われ経営が苦しい地元商店街の発案で、加盟店で買い物の際にもらえるスタンプを集めるとその分だけ納税に使えるというシステムである。納税は現金か証券に限るという地方税法の規定があるため、納税の直前にスタンプを商工会から預託された小切手に換えて納入するとのことだ。
スタンプを現金に換えるのは日本全国行われていることだが、それを役所がバックアップするというのはめずらしい。このような地方公共団体と一体となって地域通貨運動を展開できたならば、柄谷のNAM運動も少しは実を結ぶことができたのだろうかとふと考えてしまう。

『あえて英語公用語論』

船橋洋一『あえて英語公用語論』(文春新書 2000)を読む。
タイトルは過激で、「日本語に替わって英語を話せと言うのか」と即批判の来そうなタイトルであるが、中身は言語と国家や政治、教育のあり方を他国の例を交えながら丁寧に論じている良書である。英語うんぬんを抜きにしても読む価値がある。
著者は日本人の英語能力の低さが、結果として日本の世界からの孤立を招きかねないと警鐘を鳴らす。

「言語的孤立」の恐ろしさは、それがえてして国民の間に「言語的孤立感」から来る被害者意識と犠牲者意識をもたらし、排外主義を噴き出させかねないことにある。日本はあまりにも特殊だから無理だ、どっちみち日本は理解してもらえない、何を言ってもダメだ、という無力感を疎外感を生み出しかねない危険である。

言語とりわけ公用語というのは、カナダやフランスなど多くの国で、少数民族の分離独立の引き金となったり、また植民地支配の帝国主義の道具して用いられたりしてきた歴史がある。イギリスのインド統治の際の言語政策は「われわれと何百万というわれわれが統治する人々との間の通訳する階級=血と皮膚はインド人であるが、趣味、意見、価値観、知性は英国人である人々からなる階級=をつくることをねらいとする」ものだったそうだ。また、他民族国家のアメリカでも「他言語、他文化状況は、米国の国家と社会を分断させる恐れが強い」と1983年には「英語第一(English First)」なる団体も創設されてる。
船橋氏は、言語というものは「一方がうまくなると片方が下手になる、英語はできるようになるが、日本語がだめになる、というゼロ・サム関係ではない」のであり、二つの言語を並行して学ぶことで、物事の意味を分析しようとするようになる。また、日本語を英語に言い直したり、また英語でもって日本文化を捉え直すことで、思考の振り幅を広げることができると述べる。さらに、今後は日本も他民族主義・他言語主義にならざるを得ず、日本の国家像は「多元的、かつ多様で、開かれたアイデンティティ」が望ましいと主張する。非英語圏の人も共通語として使うようになった「英語たち」を第二の公用語として明確に位置づけることで、逆に第一公用語の日本語を守り、またいたずらな米国追随にならない日本外交を保障する道筋にもなるとまとめる。
一方的な立場から他方を否定するような物言いをすることなく、丁寧に論理を積み上げていく文章力には脱帽である。是非他の著書も読んでみたいものだ。

『医者だからこそ話せる 病院の掟』

今日の授業は「医学一般」であった。生活習慣病や精神障害、認知症の原因と対策など断片的な知識しかなかったが、元医者の教授が語るだけあって、ポイントをしぼって説明してくれたので、うまく整理することができた。

今日の大学からの帰りに、武蔵野線の新秋津駅から大宮駅まで「むさしの号」という直通の電車で帰ってきた。ボックス型の座席で田園風景から都市へとその背景を変える黄昏を横目にちょっとした旅情気分を味わった。

富家孝『医者だからこそ話せる 病院の掟』(日本文芸社 1999)を読む。
医師でありながら医療コンサルタント、新日本プロレスリングドクターなど幅広い活動をこなす著者が、病院や医者に対する聖域聖者幻想から逃れられない読者に対し、日本の病院の内情を暴露する。医者余剰の昨今、医者を食わせるために、病院も経営論理を優先せざるを得ず、効果もない人間ドックやせこい保健点数稼ぎで顧客の獲得に奔走しなければならないようだ。
著者はそうした現状に対し、一年間病院に行かなかった人に報奨金を与えるなど、国民に自助努力を課し患者の数を減らすことが、無駄な健康保険料の支出を防ぐ改革の出発点になると述べる。そして、同時に医師国家試験をもっとシビアなものに改革して医者を減らし、力量に応じた賃金体系を組むなどして医者の間に競争を仕掛けるなど、医療全体の構造改革が大切だと述べる。国民の側に医療そのものに対する幻想めいたものがある以上、なかなか医学界外部からの改革は難しいであろう。著者のような内部からの提言が効果的である。