『八月のマルクス』

昨日今日と、期限が刻々と近づきつつある大学のレポート作成に時間を割いた。生活習慣病とインスタントシニア体験についてまとめた。中年の肥満の恐ろしさを改めて知った。ダイエットせねば。。。

第45回江戸川乱歩賞である新野剛志『八月のマルクス』(講談社 1999)を読む。
著者は「ホームレス」生活を送りながら同賞を目指したという異色の経歴を持つ作家である。本作では元お笑い芸人のハードボイルドというこれまた異色な主人公の活躍を描く。解散して数年を経て突然失踪した元相方を追い求め続けていく中で、友人の隠された姿や過去の鬱屈した自己に行き合うといった工夫が随所に光るが、処女作ということもあってか、粗削りな展開は否めない。

「Camino」

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マックのブラウザソフトを「FireFox」から「Camino」に乗り換えてみた。シンプルなブラウザで、月並みな表現だが「サクサク」動く軽快感が心地よい。まだ文字化けの問題など残っており、次期アップデートでの改善に期待したい。

『「次」はこうなる』

堺屋太一『「次」はこうなる』(講談社 1997)を読む。
1998年から2000年にかけて小渕・森内閣において経済企画庁長官になる直前の、一番片意地を張った態度を取っていた頃の本であり、果たして著者の予想通りに日本経済が推移したのか、検証を加えながら読み進めた。
私の勝手な分析によると、著者の物の考え方には、「明治維新の頃の役人は進取の気性に富みとにかく偉い」、「著者が通産省に在職した1970年代までの役人は向上意識が高く偉かった」、そして、「1980年代以降の役人は非効率な拡大再生産を繰り返すだけの無能な存在である」「イギリスやアメリカの役人は、変化に機敏に対応することができる」「民間は常に経営努力を怠らず、近年の役人よりも優秀である」といった固定観念が強く蔓延っている。そのため、あらゆる事象を上記の公式に当てはめれば自ずと政策判断ができるかのように、いんちきな予備校講師紛いの言説が延々と繰り広げられる。真面目に読んでいると嫌気がさしてくる。
中には、少子化の進行によって、微細な差異にこだわるマニアが生み出される一方で、極めて同質をモットーとする社会構造が生み出されるだろうなど的を射た分析もある。
徹底した公務員改革を打ち上げるが、一方で、税金の無駄な使用が極めて多い自衛隊や宮内庁には批判の矛先は向けていない。これまた彼のスタイルであろう。

自由競争、自由経済は、機会の平等を重視する。機会が平等なら結果は不平等にならざるを得ない。それを心理的に克服してすべての人間の社会的安全を維持する。いわば「ホームレスのいない自由社会」こそが、これからのあり得べき世の中であろう。(中略)いまはじまろうとしているメガ・コンペティションの時代に、日本が世界の仲間入りをするためには、競争社会において成功した人を讚える美風が必要になる。

最近、小泉内閣がこれまでの総中流社会すらも「ぶっ壊し」て、格差社会を作り出したとの批判があるが、堺屋氏の上記の見解を読むにつけ、現在の「勝ち組・負け組」社会は、まさに橋本・小淵・森内閣から続く金融ビッグバン政策の結果であることが分かる。いやそもそも、自民党の党是は自由市場主義にあり、ここ数年指摘されている社会階層の格差を計るジニ係数の増加も自民党政権の目指すべき到達点なのである。全てを小泉純一郎個人のパーソナリティに帰してしまう安易なマスコミ的考え方は避けるべきである。

『速読の科学』

佐々木豊文『速読の科学:脳の「読書回路」を解明する』(光文社カッパブックス 1995)を読む。
文字を心の中で音声化するクセを取り除き、視覚からダイレクトに右脳でイメージ化させることで、1分間に1万字以上読むことができる「速読脳」が開発されると断言する。いかにももっともな「科学的根拠」を示した上で、さわりだけを紹介し、実質的な訓練は巻末の指導教室へお問い合わせ下さいといったように、この手の本にありがちな教室の宣伝本の域を出るものではない。
しかし、速読の目的は「読書の愉しみ」にあり、自己の内的世界をイメージ豊かにするものだという著者の意見には賛成だ。

□ 速読ならNBS日本速読教育連盟 公式サイト □

現場実習総括レポート

 私自身が現在養護学校に勤務しており、学校を卒業した後の生徒の生活の様子を実地に知るともに、生徒の一生涯にわたる支援のあり方を探りたいと思い、我孫子市立の知的障害者更生施設あらき園で13日間の現場実習に臨んだ。仕事とやり繰りしながらの実習は大変きついものであったが、無事に終えることができて、ほっとしたというのが一番の感想である。

 2年ほど前から、これまでの「障害の程度等に応じ特別な場で指導」の体制が組まれる特殊教育から、「障害のある児童生徒の教育的ニーズを的確に把握し、柔軟に教育的支援を実施」する特別支援教育への移行が特殊教育諸学校で始まっている。文科省の打ち出す特別支援教育は、利用者一人一人のニーズに応じた「個別の支援計画」を作成し、乳幼児期から学齢期、そして、青年期、老年期に至る生涯一貫した支援体制の構築を目指すものであり、学校と福祉、医療等の関係機関との連携・協力が必要不可欠だとされている。私が勤務する学校にもレスパイトサービスの業者が生徒の送迎を行ったり、補装具点検や自立活動訓練などでPTやOTの方との連携も徐々にスムーズなものになっている。しかし、あくまで現在在籍している生徒についてのみで、卒業後の入所通所の施設との連携はまだまだ進んでいない。

 そして、実際に通所型福祉施設で実習を行う中で、学校機関と福祉施設の連携の難しさを改めて突きつけられた。特に実習先のあらき園は千葉県立我孫子養護学校の隣に位置しているにも関わらず、全く連絡を取り合っておらず、昨年度学校を卒業して入所した利用者の情報すら共有されていない。養護学校卒業生の簡単なプロフィールが書かれたA4一枚の「個別の教育支援計画」が送られてきているのだが、全く活用されていなかった。この結果は残念なものであったが、学校と施設の壁の厚さを改めて知るよいきっかけとなった。

 また、公立の施設の限界も色々な場面で感じた。確かに公立の施設は費用も安価で、交通の便に恵まれ、一度入所すれば死ぬまで面倒を見てくれる所である。しかし、公立であるがゆえに民間の福祉サービスとの連携も今一歩不十分である。また、市町村の枠を跨いだ他の市町村や国、県の機関との連絡調整も動きがにぶい。この公務員全体に蔓延する内向性は一朝一夕に解決するものではないが、加速度的に進む少子高齢化、居宅をベースにした地域福祉の流れに対して、特に官の側の柔軟な対応の変化が求められる。

 今回は重度の自閉症やダウン症の障害を抱えた利用者が多数通う知的障害者更生施設に行ったのだが、残念ながら養護学校に比べ日常生活プログラムに工夫が足りないと正直感じた。陶芸や農芸など利用者のニーズに応じたプログラムが用意されているが、流れ作業的に職員が利用者に対して課題を与える姿勢が目立ち、利用者が心から楽しんで参加している様子は見受けられなかった。楽器を用いて一緒に歌や音楽を楽しんだり、小道具を用いてのダンスやゲームなど利用者と職員が共に楽しむような活動を織り交ぜていけば施設全体の雰囲気も変わるだろうにと思った。また、逆に私自身が惰性に流されて仕事をしていないだろうかと反省する契機ともなった。人に関わる仕事である以上、どんな利用者であれ、どんな施設であれ、人を惹きつけるだけの「芸」を見つけ、磨きをかけていきたい。

 学校の教員は、療育手帳や支援費などの金銭面や生涯を見通した長期的な福祉が見えていない。また、施設の職員には、利用者の興味関心を高めて能力を伸ばそうとする教育的工夫が足りない。日本では長い間、文部科学省と厚生労働省の縦割り行政の悪弊が続き、現場レベルでも養護学校と福祉施設の連携が断たれたままであった。また今後においても、国家行政のレベルで教育と福祉の連携は期待できそうにない。それならば、現場における人的交流の促進が何よりも求められる。学校と施設の合同の行事や交流会を増やしたり、少なくとも半年単位で養護学校と福祉施設の職員の相互の長期研修制度を創設するなどして、学校の教員と施設の職員が気楽に酒を酌み交わす場をつくる必要があると感じた。そうした酒の席における議論や雑談の中に教育と福祉の垣根を取っ払う新しい特別支援教育の可能性が詰まっているはずだ。