『新しい歌をうたえ』

鈴木光司『新しい歌をうたえ』(新潮社 1997)を読む。
「受験チャレンジ」という高校1・2年生向けの雑誌に連載されていたコラムをまとめたもので、若者応援メッセージが多い。

勉強という面では空白の三年間。しかし、ひとつのこと(音楽活動)に熱中したという思い出や経験は十分に残った。同時に、何度思い返してみても楽しいと言える高校生活と、その満足感が。
(中略)結果としてぼくはミュージシャンにはならなかった。しかし、三年間というもの、たったひとつのことに熱中し、エネルギーを傾けたという経験は、様々な局面で生きている。
もっとも無意味なのは、あちこちに手を出し、達成感を得られないまま、途中であきらめてしまうことだ。熟達するために地道な努力が要求されているものであれば、何に熱中しようと構わない。ただ、何の努力もなく手に入る快楽に夢中になるのだけはよしたほうがいいだろう。

何やら中学校の朝礼の校長の話のようだが、苦労して小説家という道にこだわり続けた鈴木氏の経歴に思いを馳せると、その言葉の意味は重くなる。そして最後に次のような言葉で締めくくる。何か私自身も身が締まる思いがする良い文章だ。

生き生きとして楽しく、自由で、後悔のない人生を送るために強調したいのは、
「少数派で行く勇気を持て」
ということである。
多数派に与しようと日々汲々と過ごす限り搾取の対象となって、人の尻を追いかけるだけで終わってしまう。流行の品を追い求めるためにいくらお金を遣ったか、考えてみればいい。それ以上に致命的なのはエネルギーの浪費だが。
さて、後悔のない人生を送るためのアドバイスとしてもうひとつだけ言っておきたい。「少数派で行け」というのもそうだが、それとセットにしてもうひとつモットーを掲げよう。
「若さだけで勝負するな」
これは効果てきめんである。若さを売り物にして、年上の人間に、「あんたの負けね」などとほざいていると、まず未来はないと思ってもらいたい。本当である。この手のタイプで成功する人間はいない。
若さだけを武器にしていると、将来の自分にとって本当の武器になるキャラクターを身につける努力を怠り、気がついたら年だけとっていたっていうことになりかねない。勝ちは一瞬、その後はすべて負けの側に回ることになる。
年を取るということは何も怖いことではない。ぼく自身、若かった高校や大学の頃よりも今のほうが何倍も楽しいし、自由だ。やはり、少数派でいることを怖がらず、若さだけを武器にしてこなかったからだろうと、密かに自負している。

社会福祉学

正月休みに入って少しずつ勉強のペースが上ってきた。
昨年の末に社会学、心理学、介護概論の全体像を押さえ、昨日からは公的扶助論、社会保障論、児童福祉の過去問を解いている。社会福祉学は全体が一つの体系として繋がっているので、一度全体の形が見えてくると後の勉強は楽である。

今日は家族を連れて春日部市内にある八幡神社へ出掛けた。とりあえずというか一番大切な「交通安全」を祈願してきた。ハンドルを握る以上、気の緩みは禁物である。ただでさえ私は考え事をしてぼーっとすることが多いので気をつけたい。
と同時に、来月車検を迎えるミラージュをどうしようか迷っている。社会人になって初めて買った車で大変気に入っており、7年超えた現在でも絶好調なのだが、3ドアであるため、チャイルドシートを取り付けることができず面倒な思いをしている。子どもがこの先一人であることが確定しているならば、妻の4ドア(これまた厄介である)のワゴンRで事足りるのであるが、こればかりは何とも言えず困っている。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます

今年の元日は、今月末に控えた社会福祉士の国家試験の勉強でスタートしました。昨年は子供の誕生を控え落ち着かない中、大学の社会福祉士養成課程の現場実習から一年が始まりました。

今年は、3年間に亙った教育・福祉を巡る勉強や資格取得、実地の経験に一先ず区切りを付け、新しいことに挑戦してみたいと感じています。といっても、試験が無事終了し、スタート地点に立たないことには次に進めません。まずはスタート地点まで「猪突猛進」でしょうか。

『あなたはもう幻想の女しか抱けない』

速水由紀子『あなたはもう幻想の女しか抱けない』(筑摩書房 1998)を読む。
上野千鶴子の進歩主義的フェミニズムと、宮台真司的な「ブルセラ女子高生」論に依拠した「渋谷」社会学といった内容か。
男性型「会社人間」抑圧構造と性別役割分担家族制度に安住している大人こそが現在の社会荒廃の元凶であり、そうした旧来社会の解体を目指すべきだとするフェミニズム論と、女子高生という生身の人間を「無垢で純粋な聖少女」と記号化してしまう男の歪んだ人間観を生み出した消費社会主義の2つの立場を踏まえて、結婚や教育、援助交際を採り上げる。

著者は現在の家庭、そしてそれを取り巻く社会を、次のようなモデルケースを踏まえて論じている。

性的スキルが小学生並みでロリコン漫画で興奮するような男が、会社員として働き、妻と子供を持つ。当然、妻は満足できないから、夫をバカにしたり浮気をする。そこでプライドを傷つけられ、子供に対して専制的に振舞う。娘は援交、息子はシンナーや恐喝へ。こうして家庭が空洞化していく。
(中略)中学生は傷つくことを恐れてナイフを持ち歩き、教師の言葉に過剰反応し、オヤジは自分の貧しい実存を傷つけない女子高生に走り、傷つけば簡単に自殺してしまう。(中略)中学生は親の「偏差値の高い学校に入れる、世間的に自慢出来るいい子」と「親の許容する、一定の路線を踏み外さない普通の子」という、すべて学業を軸とした二極幻想に支配されている。オヤジの場合なら、「金回りのいい会社経営者である」「大蔵省のエリート官僚である」「企業の中で出世コースに乗っている」……これらは形を変えた会社幻想にすぎない。だから、外部の枠組みや社会状況によって幻想が崩れれば、自尊心は限りなくゼロに近づいてしまう。

そして、現代の女性が等身大の自分としっかり向き合っている一方で、男性は実在する自分を自己認識できず、酒や買い物、仕事、次にはアニメ、少女幻想、はてや妻子をコントロールすべき「理想的な父親幻想」にハマっていくと述べる。著者は最後に「私の存在をフェイクするすべての幻想を捨て、リアルでいびつな自分を愛する」ことから始めよと説く。

読みながら確かに頷くような分析もあったが、渋谷に集う若者やオヤジとその家族を、性別・世代といった要因で全てを十把一絡げに総体化し、現在の世相を計ろうというのは1700円の本の内容としては安易な気がした。緻密な統計調査を踏まえて論じるのならともかく、多様な個人や家族を恣意的なステレオタイプに当てはめて論じようというのは、センセーショナルであるがゆえに、一方的な世論誘導にもつながりかねない危険性を有する。

「試される憲法」

本日の東京新聞朝刊に「試される憲法」という連続コラムに東大大学院教授の上野千鶴子さんの意見が寄せられていた。
人権無視を慣例化する象徴天皇制の一条、また軍事力による平和維持を目指す九条改正含めて、はたして憲法が国民を守るに値するものか含めて議論し、選び直す「選憲」の立場を唱える。「天皇制を維持するためにどこまでコストをかけるのか。戦後60年たって共和制はあらためて考えるべき選択肢だと思います」と憲法そのものの根本意義を読者に問いかける。

「試される憲法」と同じ紙面に、岡山のハンセン病国立療養所「長島愛生園」内にある教会の大嶋牧師が、聖書にある「らい病」(ハンセン病の旧称)の記載は誤訳だとして、出版社に働きかけ聖書の記述を改める活動を続けているとの記事が載っていた。
「らい病」と訳されている「ツァラアト」は「汚れているので、住まいは宿営の外でなければならない」と隔離を示唆する一節が聖書にあり、過去、罪の象徴とされてきた。大嶋牧師は「社会的差別を醸成したのは国の法や政策だけではない」、「誤訳も差別や偏見の遠因」だと呼び掛ける。

この二つの記事が同一の紙面に掲載されているのは東京新聞編集サイドの計略だろうか。もしそうだとしたら過激な紙面編成である。