『私は闘う』

野中広務『私は闘う』(文春文庫 1999)を読む。
単行本は1996年に刊行されたもので、ちょうど村山政権から橋龍政権成立までの陰の演出家として足跡を追ったものだ。野中氏は今や反小泉内閣の急先鋒であるが、自民党の野党時代から自民党を陰で支えた中心人物である。確かに野中氏には巷間伝えられる大きなビジョンがない。政治を社会を経済をどのように導いていくのか方向性を明らかにしない。しかし彼はオウムを叩くのは全て正義という風潮が強い95年に、松本で冤罪の罪を着せられた河野さんに自治大臣国家公安委員長として率先して謝罪をした。また村山政権下では内閣の一員として「歴史を教訓にいわゆる平和への決意を新たにする決議」いわゆる「不戦決議」や従軍慰安婦基金、原爆被爆者援護法、水俣病患者の各団体と企業・国との和解など社会党的政策の実現に全力を尽くす。1994年の暮れには中東でのPKO活動をめぐり、「カンボジアでは小銃が、モザンビークでは機関銃が問題になった。その次はそれ以上の装備になり、かつての時代のような危険な道をたどる」と発言している。常に権力の大勢にブレーキを掛けようとする自らの政治的スタイルを彼は次のように説明する。

戦前の体験から私は、一色に束ねるということに対して生理的に反発するようになっていたのである。一色に束ねられた組織は、必ず間違いを起こす。迎合しては駄目だ。自分の頭で考えなければ、こうした私の組織に対する考え方は、その後一貫して変わっていない。だから京都の蜷川府政へ挑戦したのだし、経世会でも、小沢さんと戦うことになったのだと思う。

まさか彼自身の心に未だに「小沢憎し」の気持ちが働いているとは思えないが、組織に属しながら組織に従わないという生き方は長い目で考えればどのような組織においても必要な人物であろう。いわゆる自民党的なもの、共産党的なもの、引いては付和雷同的な、「同じアホならおどらにゃ損」といった日本人的なものの限界を見ようとする彼の姿勢は、その主義主張はさしおいて一目置かれるべきであろう。

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