太田順一『ぼくは写真家になる!』(岩波ジュニア新書 2005)をパラパラと読む。
「ぼくは写真家」とタイトルにあるが、フレームや絞り、焦点といったカメラに関する話はほとんどなく、取材で訪れたハンセン病療養所や朝鮮文化を紹介する生野民族文化祭、阪神大震災の現場など、被写体の方たちとの語らいや、人生などが語られる。社会問題のルポルタージュとなっている。
それよりも筆者が25歳で写真学校に入るまでの学生時代の話が興味を引いた。昔懐かしい1969年の早稲田大学の様子が綴られている。三田誠広の『僕って何』や立花隆の『中核vs革マル』の世界である。
入学式のあとも大学は騒然としていて授業もなかなか始まらず、でも下宿でじっとしてもいられないので、ぼくは毎日出かけていってキャンパスをうろうろした。学生運動のなかで日本共産党系の民青と反日共系との対立があるというのは知っていた。が、反日共系のなかでも早稲田に強い勢力をもつ革マルと他のいろいろなセクト、ノンセクトが敵対していて、いわば三つ巴の争いになっているのには面食らった。
あるとき、角材や棍棒を手にしたヘルメットの学生集団を一般学生が遠巻きに取り囲んでいて、そのなかにぼくもいた。一般学生のなかには民生の活動家もまぎれ込んでいるいるようで、ときおりゲバ学生の集団に向かって怒声を放つ。やがてそれが「帰れッ、帰れッ」コールにかわったとき、ヘルメット学生がひとり前に走り出てきて、握っていた牛乳ビンを勢いよくこちらに投げつけた。(中略)
機動隊が導入された日だった。青い乱闘服が正門のところにいならび、導入を知って大勢の学生が集まってきていた。みんな興奮していて、ぼくもどうなるんだろうと人垣の最前列で見守った。ぐるぐる円をえがくようにデモをしていた一団が、向きを変え直線に進んだかと思うと、何と、ヘルメットをかぶった頭を低く落としてそのままジェラルミンの盾の列に突っ込んでいったのだ。
「え、何すんねん」
信じられない光景に、ぼくは関西弁で声にならない声を出した。やむにやまれぬ衝動なのだろうが、あまりにも無意味な玉砕行為だった。殴打のにぶい音がひびいて何人かの学生が地面に叩きつけられた。引っぱられていく女子学生の絶叫がぼくの耳にこびりついた。