藤原和博『つなげる力』(文藝春秋 2008)を読む。
リクルート出身で、2003年から5年間、杉並区立和田中学校長を務め、総合学習「よのなか科」を提唱した著者が、5年間の実践を振り返り、これからの教育に必要な哲学を説く。改めて教育現場を良い意味で俯瞰しており、大変参考となった。10年前は見向きもしなかったのに。特に次の一節が印象に残った。
(中略)まず、日本の教育現場を呪縛する「正解主義」を払拭して「修正主義」に移行しなければならないだろう。
試行錯誤の中で、「正解」ではなく「納得解」(自分自身が納得でき、かつ、かかわる他人も納得する解)を見つけ出す訓練である。まず、やってみて、それから無限に修正していくやり方だ。
学校現場は最初から正解に到達しようとするから、何かを始めようとすると、一年目は様子を見て、二年目は意見を出して、三年目に提案して、四年目にやっと実現するようなスピードで物事が動く。変化の激しい成熟社会では、動かしたときには、もう課題自体が変化していたり、子どもたちの求めるものも変わったり、時代も変わってしまったりする。まさに「ゆとり教育」がそうだった。
結果、策としては有効ではなくなってしまう可能性が高い。だから、やってみて、ダメならすぐに引っ込める。ズレがあればスピーディーに修正するという「修正主義」のほうが効果が出やすい。そのためには、失敗をおそれてはならない。
人間が成功より失敗から学ぶことが多いことに、異論の余地はないだろう。
しかし、その学びの場である学校では、失敗を必要以上に怖がり、無難な路線を選ぶ空気が支配する。
このあと、著者が校長の赴任した際、運動会を盛り上げる方向で新しい提案したところ、安全面を主張する声に潰されたエピソードが紹介される。「失敗」つまりは「改革」や「挑戦」を忌避する傾向が強い。確かに「安全」以上の正解はない。しかし、正解ばかりを礼賛しては、社会から取り残される。正解を否定していくバイタリティが学校現場には必要である。以下、参考になるところを引用しておきたい。
「運動会」や「学芸発表会」のあとの感想文などの場合、作文の始まりを必ず「会話体」か「心内文(自分の心の中のつぶやき)」から始めさせる。
会話体から始める例は、こんなふうだ。
「もうすぐ始まるね」
と村山君がつぶやいたとき、ぼくは大きく息を吸って……「男子が全然合わないじゃない!」
実行委員がそう言ってにらみつけた。ぼくは……
200字作文だが、書く様式は決めている。
まず、第一段落に、問題のテーマについて「賛成」か「反対」かを書くこと。
第二段落以降に、その理由や理由を支える事実、経験を書くこと。
また理由を述べる際は、必ず、次のどちらかの言い回しで書くこと。
①なぜなら……だからです。たとえば……(こんなことがありました)。
②理由は2つ(3つ)あります。1つは……、もう1つは……だからです。