西洋史 第2課題

 独占資本主義段階に達した列強が非Europe地域を自国の植民地や勢力圏に組み入れようと競合し,資本輸出政策を展開した政治・経済・社会の動向を帝国主義という。特にAsiaやAfrica地域において,後発のGermanを加えた世界分割競争が繰りひろげられ,世界大戦へと発展した。
 最も早く帝国主義政策をとったのは英国である。Disraeli内閣によるSuez運河会社株買収(1875),India帝国の成立(1877)に続き,Gladstone内閣によるEgypt占領,Chamberlainによる南Africa戦争と,植民地拡大政策が遂行された。同時期にRhodesはEgyptのCairoからCape Townまでひと続きの植民地を建設しようとした。「できることなら空に浮かぶ星も併合したい」と口にしたRhodesは当時の英国帝国主義政策を象徴する人物といえる。
 1898年,英軍と仏軍がSudanのFashodaで対峙するという事件が起きた。しかし,国内でDreyfus事件を抱えていた仏国は,土壇場で譲歩し,Sudanは英国領となった。この事件を通じて両国は関係が改善され,独逸との利害関係の一致から,1904年に英仏協商が成立した。
1899年Transvaal共和国やOrange自由国の併合に反発したBoer人と英国の間にBoer戦争が始まった。Guerilla戦を展開するBoer人の抵抗は強固で,英国は45万人もの兵力を動員する大戦争となった。そのため極東地域での露国の南下政策を牽制する余裕がなくなり,1902年に「光栄ある孤立」政策を破棄し,日英同盟を結ぶことになった。辛勝した英国は1910年南Africa連邦を形成し,apartheidが行われた。
 1870年に普仏戦争に敗れ,第三共和制が成立した仏国では,対外的にはNapoléonⅢに引き続き,Indochina/Africaに植民地を拡大していった。内政面では,1889年にBoulanger将軍を中心とした反議会・対独復讐の大衆運動の高揚といった政情不安定な状態が続いたが,徐々に国民の中に排外民族主義が浸透していった。
 1871年にドイツ帝国を成立させたBismarckの外交政策は「Europeの安定とFranceの孤立化」であった。1873年にRussia/Austriaと三帝同盟を結び,さらに,1882年にはAustria/Itaryと三国同盟を成立させた。しかし,1890年Bismarckが辞職すると,皇帝WilhelmⅡは「世界政策」という名前で帝国主義政策をとり,積極的に植民地獲得に乗り出した。1894年に露仏同盟が成立すると,独墺伊の三国同盟と露仏の二国同盟の対抗という形となった。また,英国のSuez運河を経由したIndia植民地化政策(3C政策)に対抗して,Osman帝国から領内の鉄道敷設権を獲得し,Berlin/Byzantium/Bagdadを押さえ,India洋を支配下に置く3B政策を押し進めた。1905年,1911年と仏国によって植民地化されつつあったMoroccoに軍艦を派遣すると,英国は仏国を支援して,独逸の要求を挫いた。
 また,1890年代以降,高度工業化が急速に進展し,石炭や鉄鋼などの伝統的な重工業に加え,化学工業や電気工業などの先端技術を駆使した分野でも優位に立ち,巨大銀行と結び付いた帝国主義的膨張政策が国外だけでなく,国内でも大きな意味を持つようになった。社会主義の台頭もあったが,反体制派や労働者を体制内に統合し,政府国民の双方から全独逸人による大帝国建設を目指すPan-Germane主義を支持する傾向が強まっていった。
 露土戦争に敗れ,Berlin条約で南下政策が挫折した露国は,東方への進出を図り,露仏同盟成立後,仏国資本を導入したSiberia鉄道建設に着手した。1904年に日露戦争が始まると国民生活は悪化の一途を辿り,1905年の血の日曜日事件を契機に,第1次Russia革命が始まった。労働者代表の自治組織Sovietが作られ,NikolaiⅡは国会開設を認めようやく事態は収拾に向かうこととなった。
 露国の弱体化が明らかになると,中央Asiaでの権益を協議するため,1907年英露協商が結ばれた。その結果,英仏露3国相互に三国協商という同盟関係が成立し,独墺伊の三国同盟と対立した。1908年にOsman帝国内で青年Turkey革命が起きると,Austria=Hungaryは独逸の後押しを受けてBosnia-Herzegovinaを併合した。しかし,両州の住民の大半がSlav系であったため,SerbiaはRussiaに助けを求めたため,戦争の危機が高まった。1912年,SebiaやBulgaria,Montenegro,Greeceの4国はBalkan同盟を結びTurkeyに宣戦布告をした。仏国や露国の武器供与を受けたSerbiaと独逸の武器供与を受けたTurkeyの戦争は,地域だけの対立に留まらず,過剰資本の投資先を巡る帝国主義国間の国際対立の主戦場であった。2度の戦争を通して,列強の二極化がBalkan半島の民族意識を過度に刺激し,Balkan半島は”Europeの火薬庫”と呼ばれた。第1次大戦のきっかけとなった1914年のAustria皇太子夫妻暗殺の犯人は,まさに暴走を始めた帝国主義だと言ってよい
〈参考文献〉□木下康彦他編『詳説世界史研究』山川出版社 2008年 □浅野典夫『「なぜ?」がわかる世界史』学研 2012年

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