経産省前テントひろばのメーリングリスト「テント日誌」[9/5]より転載します。
「政治屋」に頼らない無党派運動の「現場」に根ざした文章である。
昼過ぎには鹿児島の川内原発の地元の人だという二人がテントを訪ねてきた。訪ねてきたというよりはテントを見ていた二人にパンフを渡しながら話かけたら明らかにしたのである。彼らは原発再稼動の賛否はいわなかったが結構長い話になった。反対派の展望というか、政策めいたことを質問してきたのは関わりの深い人のようにも思えた。原発推進派は最後に雇用と地域経済のことを持ちだすが、これは悪循環であって、原発維持派は原発に頼らなくてもいい経済的・地域的再性の可能性を潰してきたし、それをネグレクトする形で原発存続の構造を維持をしてきたのではないのか。こういう疑問が出てくるのだけれど、原発が地域経済を振興させるという神話が解体したる今、それをさらにはっきりさせるためにも原発以外のエネルギー開発と地域経済の再生の展望を明確にして行くことの必要を感じる。
現在、商業用の原発は稼動を停止しているし、それはやがて1年になろうとしている。「電気が足りない」「原発は安い」という神話が安全神話の崩壊に続いているが、僕らはこの稼働停止の中で脱原発の現実的な闘いが展開されていることを忘れはならない。脱原発の運動(政治的意志表示など)のことではない。原発推進派とそれ以外のエネルギー開発をめざすグループは日々しのぎをかけた闘いをやっているのであり、停止が一日でも延びれば原発推進派は不利になる。原発以外のエネルギ―開発やそれに向かう投資は進み、原発存在の基盤は減衰して行くからだ。かつてもそういう時期があったが原発推進派の勝利はエネルギ―開発の動きを潰した。今度はそれをさせてはならない。脱原発の運動は多様な、まさに重層的な展開をしながら連なっているのである。
朝日新聞の「プロメテウスの罠」は「2人の首相」という記事で小泉や細川のことを取り上げていた。彼らが政党や政治に距離を置き、国民運動に軸足をおいて行くと宣言しているのは賢明であり、さすがに彼らは分かっているのだと思った。脱原発運動の広さと深さを視座として持っていることをこの発言はしめしているが、これまで本家として脱原発運動をやってきたと自認する部分は、秋に陣に当たってこの辺を帰り見るのも必要かと思う。自分たちのやってきたことを帰り見る事は前に向かうためにやらねばならぬことであり、それはいつだってやり足らないことなのだ。(三上治)