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「文化系大忘年会2024~今年の3大重要トピックは?」

車を運転中にポッドキャストで、TBSラジオ文化系トークラジオLife「文化系大忘年会2024~今年の3大重要トピックは?」(2024年12月29日放送)を聞いた。
AIの進化や読書、「界隈」の定義など、ここ最近の興味ある話題がどんどん続いて面白かった。特に近松門左衛門の「虚実皮膜」というキーワードを出して、現実と虚構が入り混じったバラエティ番組や文学作品が増えているという指摘は鋭かった。

また、同世代の速水健朗さんの口から、先日読んだばかりの「滝山コミューン」の話が出てきてびっくりした。極めて均質性の高い郊外ニュータウンという文脈で使われていたが、なぜその言葉まで知っている?

『教養のためのブックガイド』

小林康夫・山本泰『教養のためのブックガイド』(東京大学出版会,2005)を読む。
『知の技法』から続く東大教養学部の教員による学問の入門書シリーズである。
では、いったい東京大学の教養学部が目指す「教養」とは何なのか。動物行動学が専門の長谷川寿一氏は次のように述べる。

いうまうでもなく、教養を持つことに、即時的な効用があるわけではありません。人間がチンパンジーグループの一員だと知ったところで、それを知らないときと比べて、生き方がすぐに変わるということはありません。

では、雑学と教養はどこが違うのか。明確な線引きは難しいのですが、雑学は個別の知識の集合であるのに対して、教養は普遍的な知の体系、あるいはそれを目指す姿勢のことだと思います。何かを知っているだけの雑学では、評価や意思決定を要しませんが、教養には物事に対してそれを記述するだけでなく、それをどう評価付け、判断するかが問われます。シャークスピアの全作品の名前を列挙するだけならば雑学の域を出ていないかもしれませんが、それぞれの作品を関連付け、その背景や意義を説明できる知識(あるいはそれを知りたいという姿勢)はたしかに教養と呼べるでしょう。

同じく長谷川寿一氏が指摘しているのだが、人間の知的能力や精神は10万年前のアフリカで生活していた頃からほとんど進化していないことが分かっている。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは遺伝子が異なり、生物学的な進化をしているが、10万年前も現在も同じホモ・サピエンスで、同じ遺伝子を受けて継いで生まれているのである。でも、私たちは10万年前から知的能力が格段に進化していると勘違いしている。生まれつきの能力は同じなのである。違いは後天的な成長や学習に拠るものである。その一点だけ分かっただけでも、本書を読んだ価値があった。

『上野千鶴子が文学を社会学する』

上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日新聞社,2000)を読む。
かなりボリューミーな内容であった。坪内逍遥や二葉亭四迷の作品分析に始まり、有吉佐和子や佐江周一の作品における核家族論、江藤淳、永山洋子まで幅広い。

文学作品を例に取りながら、女性が「女性性」に閉じ込められている事実を一つ一つ分析しながら、そうした「女性性」からの解放を訴える。

しばしば誤解されているようだが、(ウーマン)リブは「新左翼の女性版」では決してない。(中略)1969年1月に安田講堂が陥落し、全共闘運動が最期を迎えたあと、(中略)挫折した新左翼の運動家たちが、女と日常へと回帰しようとしたときに、「日常」そのものを戦いの場として、女たちの「愛と性の革命」は始まったからだ。

また、現在の小説でも女性のセリフには、「あたし」「〜わ」「〜よ」といったように、日常会話では使わない言い回しが用いられる。著者は「男言葉を標準化した近代国語の中では、女言葉は回りくどい『しるしつき』の言語にほかならなかった」と述べる。

また、『恍惚の人』や『黄落』などの老人介護文学を取り上げ、94歳の老父が80代の老女と恋仲になる場面を通じて、次のように述べる。

他人なら寛大になれることでも、家族だから許せないこともある。近代家族とは、親が子に、子が親に、性的な存在であることを許さない装置でもある。人生の最後に、親が親であることから解放してあげるためには、他人の手が入ることもまたよしとしなければならない。

私は知らなかったのだが、国語の教科書にも登場する尾崎放哉の紹介が興味を引いた。「せきをしてもひとり」「墓のうらに廻る」の句で有名な尾崎放哉は、厭世的なダメ人間のような勝手なイメージがあったが、実は一高・東大を出て保険会社のエリート社員となり、朝鮮や満州をわたった後、内地に引き揚げ、妻と別れて無一文になり一燈園に入り、仏教に帰依し、42歳で亡くなるという波乱万丈な人生を送っていたのだ。