上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日新聞社,2000)を読む。
かなりボリューミーな内容であった。坪内逍遥や二葉亭四迷の作品分析に始まり、有吉佐和子や佐江周一の作品における核家族論、江藤淳、永山洋子まで幅広い。
文学作品を例に取りながら、女性が「女性性」に閉じ込められている事実を一つ一つ分析しながら、そうした「女性性」からの解放を訴える。
しばしば誤解されているようだが、(ウーマン)リブは「新左翼の女性版」では決してない。(中略)1969年1月に安田講堂が陥落し、全共闘運動が最期を迎えたあと、(中略)挫折した新左翼の運動家たちが、女と日常へと回帰しようとしたときに、「日常」そのものを戦いの場として、女たちの「愛と性の革命」は始まったからだ。
また、現在の小説でも女性のセリフには、「あたし」「〜わ」「〜よ」といったように、日常会話では使わない言い回しが用いられる。著者は「男言葉を標準化した近代国語の中では、女言葉は回りくどい『しるしつき』の言語にほかならなかった」と述べる。
また、『恍惚の人』や『黄落』などの老人介護文学を取り上げ、94歳の老父が80代の老女と恋仲になる場面を通じて、次のように述べる。
他人なら寛大になれることでも、家族だから許せないこともある。近代家族とは、親が子に、子が親に、性的な存在であることを許さない装置でもある。人生の最後に、親が親であることから解放してあげるためには、他人の手が入ることもまたよしとしなければならない。
私は知らなかったのだが、国語の教科書にも登場する尾崎放哉の紹介が興味を引いた。「せきをしてもひとり」「墓のうらに廻る」の句で有名な尾崎放哉は、厭世的なダメ人間のような勝手なイメージがあったが、実は一高・東大を出て保険会社のエリート社員となり、朝鮮や満州をわたった後、内地に引き揚げ、妻と別れて無一文になり一燈園に入り、仏教に帰依し、42歳で亡くなるという波乱万丈な人生を送っていたのだ。