郭早苗『父・KOREA』(長征社,1986)をパラパラと読む。
執筆当時神戸市職員であった著者が、在日韓国人であった父の死に際して、父の生涯を時代とともに振り返る伝記物語となっている。
著者の父は1916年、慶州北道で両班の家系に生まれている。両班(ヤンパン)とはもともと、高麗や李朝時代の高級官僚を指したが、時代が下るにしたがい、両班人口は増大し、本質的には、地主階級といった意味に拡大されていた。両班は「科挙」に合格し、中央官僚への道が開けていたが、官僚として中央に出る者はほんの一握りに限られていた。
1910年来、日本に支配権力は土地調査事業に名を借りて、農民から土地を収奪し、東洋拓殖株式会社など半官半民の植民地会社へ、その土地のほとんどを集中させた。その結果、全人口の8割を占める朝鮮農民の85パーセント以上は土地なしの小作民に転落した。日本人が三度三度米を食べるようになったのは、1918年の米騒動以降だが、それは植民地の産米増殖計画と時を同じくしている。1910年に土地を取り上げ、1920年代に米を取り上げ、そして1930年代には、日本の工場や炭鉱、満州開拓のための徴用工として人取り上げの時代を迎えるのである。
1930年代に朝鮮から日本に渡ってきた在日朝鮮人の大半は居住地が安定していなかった。飯場から飯場へと移動の連続で、当時の作業現場の近くに板切れやブリキの破片でつぎはぎしたバラックが、後年の朝鮮人部落となっていったのである。
特に神戸はゴム靴の一大生産地で、1930年代には輸出において世界一の座を占めるまでに発展したのである。その昔、草草履は部落民のする仕事とされ、「二束三文」という言葉も、部落民への差別語として生まれたという。ゴム靴は草履の延長ではないが、そこに従事する人々は部落民から在日朝鮮人へと代わっていったのである。労働力のべらぼうな安さが、ゴム靴の国際的な安さにつながり、神戸をしてゴム靴主要産地にせしめた由来である。
1939年には国家総動員法に基づき、国民徴用令が交付された。徴用制度は日本国内のみならず、朝鮮や中国の地でも発効し、約150万人の朝鮮人、約4万人の中国人が日本国内に強制連行され、炭鉱、金属鉱山、軍需産業、軍事施設などで過酷な労働を強いられ、総計50万人近い人々が死傷あるいは行方不明になったという。
ホルモン、牛の臓物は今でこそ肉屋に出回っているが、戦前は在日朝鮮人独自の食べ物であった。屠殺場へ行けば、只同然で手に入る牛の内臓を、貧しさゆえに口にしたのは、飯場の朝鮮人土工が最初だった。それが戦後の闇市に進出し、ホルモン焼きというものになって、飢えた日本人の食生活にも入っていったのである。
しかし、こうした安さを武器にしたケミカルシューズも1971年8月の、いわゆるドル・ショックと呼ばれる、ニクソン米大統領の金・ドル交換停止声明であった。この声明により輸出は激減し、長田のゴム靴工場街は、苦境に立った業者が続出し、右を向いても倒産、左を向いても倒産、という混乱状態に陥った。
さらに2年後、1973年10月のオイルショックに見舞われ、原材料の入手難に陥り、席巻していたアメリカ市場を韓国、台湾、香港などに譲渡されていった。
「二束三文」という言葉の由来と、その背景が神戸のケミカルシューズ産業に受け継がれているという時代の伏流がしっかりと理解することができた。