日別アーカイブ: 2024年10月30日

『歌のわかれ』

中野重治『歌のわかれ』(新潮文庫,1950)に収められた「歌のわかれ」を読む。
旧制四高の学生をモデルにした表題作の「歌のわかれ」のほか、「空想家とシナリオ」、「村の家」が収録されている。ブックオフの「100円」の値札が貼られており、おそらく学生時代に購入した古本であろう。

先ほど、旧制高校の教養に関する本を読んだばかりだったので、内容がすーっと入ってきた。男子だけの3年間のモラトリアムのような生活で、ドイツの影響を強く受けた講義内容や帝国大学に進学できずに選科(科目履修生)になる悲しさなどが描かれる。時代的に作者自身が四高の学生だった大正時代末ごろの1920年代前半が舞台となっている。

1940年(昭和15年)版の序文も掲載されており、「村の家」は昭和9年か10年の頃の作品であり、「歌のわかれ」は昭和14年のはじめ頃だと書かれている。大政翼賛会が発足し、思想弾圧が激化した頃である。なぜ、そんな頃に旧制高校の学生を描いたのか。ロシア革命や関東大震災によって日本が揺れていた頃である。そんな時代の中に入っていく旧制高校生の決意が最後の一文に象徴される。

彼は袖を振るようにしてうつむいて急ぎながら、何となくこれで短歌ともお別れだという気がしてならなかった。短歌とのお別れということは、この際彼には短歌的なものとの別れということでもあった。それが何を意味するかは彼にも分からなかった。とにかく彼には、短歌の世界というものが、もはやある距離をおいたものに感じられ出していた。(中略)
彼は手で頬を撫でた。長い間彼を悩まして来たニキビがいつの間にか消えてしまって、今ではそこが一面の孔だらけになっていた。いつから孔だらけになったかは彼は知らなかった。しかし今となってはその孔だらけの顔の皮膚をさらして行く他はなかった。彼は凶暴なものに立ちむかって行きたいと思いはじめていた。

芥川の「羅生門」と同じように、大人になる前の青年の象徴として「ニキビ」が使われている。

『教養主義の没落』

竹内洋『教養主義の没落:変わりゆくエリート学生文化』(中公新書,2003)を読む。
現在の旧帝国大学の教養課程(東大以外は明確な教養部はなくなったが)にあたる旧制高校に焦点を当てて、教養主義がどのように変遷してきたかを探る。

仕事がら旧制中学や新制大学は詳しいが、旧制高校となると分かったようで分かっていない存在であった。旧制高校は文系の学問が中心で、実利的な法学や経済学よりも、文学や歴史学、哲学が尊ばれるエリートが身に付けるべき教養が中心であった。その歴史は小学校や中学校に比べて短く、明治末頃までに現在の東京大学教養学部にあたる第一高等学校から、現名古屋大学の教養部にあたる第八高等学校まで整備され、以降は「地名+高等学校」の形で官立の高校20数校が開校され、成城高校や武蔵高校、甲南高校など私立の7年制の中学高校も作られている。

男女共学の新制高校とは雰囲気が異なり、男子のみ、寮生活が基本で、バンカラな雰囲気が漂う学校であった。ちなみに、Wikipediaによると、バンカラという言葉も第一高等学校の学生の弊衣破帽の流行がもとになっている。また、教養主義とマルクス主義は同根のものであり、イマドキの言葉でいうと、マルクス主義は教養主義の上位互換にあたる。知的青年が教養主義からマルクス主義に移行することによって、教養主義空間の中で、上昇感を得ることができたようだ。

しかし、こうしたエリートの教養主義に対する反感は昔から強く、その急先鋒が石原慎太郎である。石原慎太郎は旧制中学校に入学しながら、新制高校を卒業している。しかし、ちょうど学制改革の移行期で、1952年に入学した一橋大学では旧制高校出身者が羽振りをきかせている。そうした雰囲気に反発を感じた石原は、慶応大学に進学した裕次郎を旧制高校へのアンチとして活躍させる。

後半は岩波書店、岩波文庫の教養主義における立ち位置や、学生運動における旧来の教養主義への反発と憧憬などが説明されている。