夏休みの読書12冊目
日高敏隆『動人物:動物の中にいる人間』(福村出版,1990)をパラパラと読む。
前半は動物性を有した人間の生態について、後半以降は動物の記憶や学習、自殺、親子関係など、動物の生態について論じられている。私は動植物の分類学と生態学が最も苦手なので、後半は読み飛ばした。前半の人間の行動原理に関する話が面白かったので、引用しておきたい。
オスは自分では子を産めない。自分の遺伝子を持った子を作りたいと思ったら、メスに産んでもらうほかはない。オスたちが必死になってメスを探し求めるのも、あらためてよく理解できる。
メスの数は限られているし、一繁殖期にオスと交尾した回数に応じて何回も子を産めるわけではなく、産む子ないし卵の数も限られている。そこでオスは、いわば自分の遺伝子のシェアを増やすためには、メスの獲得をめぐって、オスたちの間でははげしく争わなければならない。これはオスの宿命である。どれほど「平和的」にみえるおとなしそうな動物でも、少なくとも繁殖期には、オスは猛烈に闘争的になる。
こういうわけで、とにかくオスは闘争的、攻撃的である。子ども時代はべつとして、大人になったオスどうしの関係というのは、基本的には、つねにライバル以外の何物でもない。どの動物でも、無用な闘争を避けるためにいろいろな手段が採用されているけれども、えてしてそれが効力を失い、すぐ闘争に発展する。オスがメスより体が大きく、力も強い動物が多いけれども、これもひとえにこのライバル闘争のためであって、外敵から身を守るためのものではない。もし外敵から身を守るためならば、子を育てるメスのほうがそのような武力をより多く備えているべきなのだ。
上記の文章は、人間を含めた動物のオスの生態学である。さらに次のように続く。
いかなるオスも「勝たねば」ならない。さもなくば食物も、なわばりも手に入らず、したがってメスも手に入らない。そうなったら、自分のフィットネス(自分の遺伝子を残すための適応度)を高めることは不可能である。だからオスは、何としても勝つ必要があるのである。負けたときは、自分のフィットネスを高めることは断念せねばならない。
(中略)では、負けたオスはどうするのか。(中略)負けたときはそれを諦めることになる。そこで、負けたオスは、そのシーズンは諦めるのである。次のシーズンにあらためてチャレンジする。そのときもまただめなら、その次に期待する。こうしていつか目的を達することになる。
この章の最後は次の文章で締められる。人間の男のカッコよさというか、哀れさを感じてしまう。
本来フィットネスというのは、自分の遺伝子をもった子孫をどれだけ多く後代に残せるかということであった。しかし人間は遺伝子以外にも後代に残すべきものをもってしまった。すなわち、自分の「名」である。自分の「しごと」である。ドーキンスはこのようなものを、「ジーン」(遺伝子)と並ぶものとして「ミーム」(「模倣子」とでも訳すか)と呼んだ。その結果、人間のフィットネスには、遺伝子にかかわるフィットネスと、ミームにかかわるフィットネスとが存在することになった。(中略)「名」のフィットネスを重視するのは男である。だからたいていの男は、なんらかの「ライフワーク」を残したいと望む。たいていの女は、そんなつまらぬことは考えない。自分の子どもで十分であり、楽しく生きていることでもかなり満足できる。たとえそれがきわめて人間的らしくきこえる「ライフワーク」などというものであったにせよ、それを後世に残したいと願っている以上、人間の男はまったくオスそのものである。
女性についても書かれている。こちらも女性の行動を一言で片付けてしまう割り切りの良さと、悲しさを感じてしまう。
グルーミング(体表を手入れして、清潔の保とうとする行動)はある種の快さをもたらす。それはしばしば麻薬的な効果をもつことになる。女の化粧はおそらくその一つの典型であろう。
女が化粧するのは、美しくなりたいという願望のためだとよくいわれる。しかし実際には、化粧の結果それほど美しくなるわけではないから、これは化粧品メーカーのCMにすぎない。女に本音を聞いてみれば、たいていは「自己満足のためよ」と答える。おそらくこれが本当に近いのだろう。ファウンデーションをつけたり、パックしたり、おしろいを塗り、口紅をひく。これらはすべて自分の皮膚に対するセルフ・グルーミングであり、それ自体が気持ちいいのである。(中略)このもともとは気持ちよさのためになされている行為を、さまざまな効用や価値(女の闘いに勝つこと、男の気を魅くこと、そして女の身だしなみという義務感など)と結びつける宣伝、とくにもともと美人のタレントを使って効用をあおりたてるテレビのCMによって、化粧は麻薬的な作用を示しはじめ、化粧品メーカーはますます巨大化してゆく。あれはグルーミング産業である。