山崎佳代子『解体ユーゴスラビア』(朝日新聞社 1993)を少しだけ読む。
著者は1979年にユーゴスラビア(当時)に留学し、ユーゴスラビア文学を学び、その後もセルビアのベオグラードで生活する研究者である。その著者がユーゴスラビアの紛争を現地で暮らす人々の手紙や日記で綴っていく。
ユーゴスラビアは国土面積は日本の3分の2ほど、バルカン半島の西半に位置する南スラブ系の多い民族連邦国家であった。ちょうどローマカトリックとビザンチン帝国・コンスタンティノープルの中間にあり、カトリックと正教会の勢力がクロスする。また、オスマントルコの支配下にあったため、イスラム教信者も多い。
こうした歴史的背景があり、ユーゴスラビア時代から国境を無視して民族や宗教が入り混っていた。そこへ1991年にクロアチアとスロベニアが独立を宣言するところからユーゴスラビアの解体が始まっていく。
ざっくりまとめると、イタリアと国境を接しているスロベニアとクロアチアがまずドイツから承認をもらって一方的に独立を宣言する。この時、連邦維持を主張したのがセルビアとモンテネグロである。ボスニア・ヘルツェゴビナは中立であった。その隙を狙ってこっそりマケドニア(現北マケドニア)が独立をしてしまう。面倒だったのが、ボスニア・ヘルツェゴビナである。セルビア人とクロアチア人とイスラム教のボシュニャク人の3つの民族が混在しており、対立が表面化する。今でも国内はクロアチア人とボシュニャク人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人のスカルプスカ共和国の2つの構成体からなる連邦国家である。
そうこうしているうちに、モンテネグロが選挙でセルビアとの連合から抜けて独立を果たす。最後に、セルビア内にあったアルバニア系のイスラム教徒のコソボ自治州がセルビアとの戦争を経て独立していく。