月別アーカイブ: 2019年7月

「韓国大統領『外交的解決の場を』

本日の東京新聞夕刊から。
ちょうど2週間前の日本史演習の期末考査で,韓国内の徴用工裁判判決を巡って,日本側が輸出規制を検討しているとのニュースを元にした出題をしました。覚えているでしょうか。その時点から話は大きく進展していき,見出しにある「日本経済に被害」と,報復合戦の様相を呈してきました。

テレビのニュース映像を見る限り,今回は日本政府側の汚点が目立ちます。領土や武力衝突などを巡って政治的に激しく対立しようと,貿易や文化交流,庶民の往来は保障し,決定的な衝突を避けるのが外交の基本である。日韓だけでなく,日中,米中,台中関係もそのような大人の配慮で動いてきた。政治的な主張を経済的な圧力で実現しようとするのは,欲しい物やこだわりがある時に,駄々をこねて欲求をゴリ押ししようとする子どもの論理である。

米大統領トランプ流のB級外交を真似たのか,参議院選挙で益荒男ぶりな外交姿勢をアピールしたいのか,政府の意図はよく分からない。しかし,両国にとってウィンウィンな経済の発展という共通の利害関係を疎かにしてしまうと,ある意味コップの中の嵐に過ぎない政治家同士の衝突が,退っ引きならない国民同士の軋轢となって跳ね返ってきてしまう。こういった外交のイロハは儒家の論語や,司馬遷の史記,十八史略などでも寓話を交えて繰り返し語られていることである。

やはり,今回の話は,1965年の日韓基本条約締結の背景や歴史的流れを押さえておかないと,浅薄な理解に留まってしまう。2学期に自信を持って教えられるように,この夏休みしっかり勉強します!

『世界を知る力』

寺島実郎『世界を知る力』(PHP新書 2010)を読む。
三井物産戦略研究所会長や多摩大学学長を歴任した著者が,改めて国際政治や世界情勢を正しく分析することの意義を説く。著者は世界を知るということについて次のように述べる。

 広島の原爆死没者慰霊碑に,「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」という有名な文言がある。わたしは,あの碑ほど日本人の知性の壁を示しているものはないと思う。というのも,誰の誰に対する「過ち」なのか,どういう文脈での「過ち」なのかが,いっさい見えないからだ。これでは,「とりあえず戦争という過ちは繰り返さないということで」というあいまいな話になってしまっている。
わたしたちは,たとえ面倒でも,精神的に苦しくても,「過ち」に含まれるすべての過ち,すなわち,原爆をつくって科学者の過ち,投下する決断を下したアメリカの政治世界の過ち,さらには,それを促してしまった日本側の過ち,こういったものを全部体系化して描ききらないと行けないのではないだろうか。そして,それこそが,「世界を知る」ことなのだと思う。
「世界を知る」とは,断片的だった知識が,さまざまな相関を見出すことによってスパークして結びつき,全体的な知性へと変化していく過程を指すのではないだろうか。

また,著者が「知の巨人」と敬愛する加藤周一氏との対談を経て,著者は次のように述べる。

 わたしたちは,「世界を知る」という言葉を耳にすると,とかく「教養を高めて世界を見渡す」といった理解に走りがちである。しかし,そのような態度で身につけた教養など何も役に立ちはしない。世界を知れば知るほど,世界が不条理に満ちていることが見えてくるはずだ。その不条理に対する怒り,問題意識が,戦慄するがごとく胸に込み上げてくるようでなければ,人間としての知とは呼べない。たんなる知識はコンピュータにでも詰め込んでおけばいい。

世界の不条理に目を向け,それを解説するのではなく,行動することで問題の解決にいたろうとする。そういう情念をもって世界に向き合うのでなければ,世界を知っても何の意味もないのである。

ただ試験のためだけに知識を詰め込んだところで,本当の力となる教養にはならない。国の審議委員や大学の学長を務めながらも,世界に対する若さを保っている著者はすごいと思う。

その他,ウクライナ人が白系ロシア人と呼ばれた経緯や,七福神の乗る宝船が仏教,ヒンドゥー教,道教が呉越同舟する話など,興味深かった。特に「ユニオンジャックの矢」と呼ばれるイギリス外交の話は,今後の世界情勢を知るための「公式」になりそうな内容だった。

「イラン 中国に急接近」

本日の東京新聞朝刊に,米国から原油輸出規制をかけられているイランと,イランの最大の貿易国である中国が急接近しているとの記事が掲載されていた。中国は自国が主導する上海協力機構へのイランの正式加盟も歓迎する考えとのこと。

地理的空間や条件から民族や国家の特質を説明しようという学問を地政学という。地理Bの教科書に書かれている内容だけでも,地政学の観点から世界政治を俯瞰することができる。まず原油の多くは中生代以降のプレートの変動による新期造山帯の褶曲地層から産出される。そのため,環太平洋造山帯とアルプス=ヒマラヤ造山帯の周囲に原油産出が集中している。

1960年の設立当初の石油輸出国機構(OPEC)の加盟国を見ても,サウジアラビア、イラン、イラク、UAE、クウェート、カタール、アルジェリア、ナイジェリア、リビア、インドネシア、ベネズエラと上記の2つの新期造山帯に集中していることが分かる。

米国の産油が

 

『日本という国』

小熊英二『日本という国』(理論社 2006)を読む。
中高校生向けに,近代日本の有り様を問い直すという内容である。平易な文体で読みやすく,一気に読了した。分かりやすい文章なので,いくつか気になった点を引用してみたい。

(明治になって小学校が義務化(1872)されても,4年制の下等小学校の卒業率が20%程度だった)
この状態が変わったのは,明治20年代の半ばを過ぎてからだ。
まず1895年には,清国との戦争である日清戦争に日本が勝ち,清国から当時の日本の国家財政の4年分以上にあたる賠償金をせしめることが出来た。このお金から教育基金がつくられ,国庫からの補助も増えて,1900年には小学校で授業料をとるのが廃止になった。
日清戦争の賠償金からお金が教育基金に回されたのは,国民に教育を広めることがどんなに戦争に役立つかが,実際に戦争をやってみてよく分かったことが関係している。読み書きも算数もできない兵隊なんて,近代戦には役立たない。

(中略)それと平行して起きたのが,日本の産業の発達だった。それまでは,学校で読み書きや算数を習ったところで,農民の子どもはやっぱり農民になるしか職がないことが多かった。しかし産業の発達が軌道にのると,工場や会社がたくさんできて,職場が多くなる。そういう職場に就くためには,読み書きや算数のできる人間のほうが有利だ。
近代的な会社や工場にやとわれるためには,兵隊とおなじく,教育が必要だ。書類の読み書きができない会社員とか,機械のマニュアルが読めない工員とか,数の計算ができない従業員とかは,近代産業ではおよびじゃない。

 もともと日本の軍や政府の上層部は,戦争を始めたときから,段違いの国力をもつアメリカと戦って,勝てる目算などもっていなかった。そして戦争の最後の一年には,誰がどうみても日本に勝ち目がないことは,彼らにも分かっていた。
ただ彼らは,降伏条件を良くしようとして,どこかの局地戦で勝ってから,降伏交渉を始めようと考えていた。その降伏条件の改善というのは,一つは天皇制を守ることと,二つめは戦犯裁判を日本側で行なうことだった。

戦犯裁判が連合国側によって行なわれたら,日本の軍や政府の上層部の人間たちに,厳しい処罰が待っていることは明らかだった。つまり彼らは,自分の命が惜しかったから,「降伏条件の改善」にこだわったのではないかという疑問もわいてくる。そうして,負けるとわかっている戦争を引き延ばし,兵隊や民間人が大量に死んでいく状況を招いた。
日本への空襲が始まったのは,戦争が終わる10ヶ月前のこと。だから,どう考えても勝ち目がないとわかった時点で降伏していれば,空襲もなく民間人の死者もほんの少数で済んだはずだし,南方戦線で餓死同然に死んでいった兵隊もはるかに少なくなっていただろう。

これについては,昭和天皇も関係している。1945年2月,元首相の近衛文麿が天皇に降伏交渉を始めることを進言した。しかし天皇は,「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べて,それを拒否した。この時点で戦争をやめていれば,3月の東京大空襲も,4月からの沖縄戦も,8月の原爆投下も,ソ連参戦やその結果としての朝鮮半島の分断も,なくて済んだはずだった。

(冷戦の進展で,米国と日本の保守政治家が結託して憲法や講和条約を進めた話を受けて)ところで,戦後賠償問題はその後どうなっただろうか,サンフランシスコ講和会議で大半の国に賠償請求権を放棄してもらったけれど,フィリピンや南ベトナムは請求権を放棄しなかったし,インドネシアは条約を批准しなかった。また講和会議に招待されなかった中国や韓国,会議に参加しなかったビルマなどとは,話がついていないままだった。

そこで日本は,まずビルマ・インドネシア・フィリピン・南ベトナムの4カ国と個別交渉を行ない,1955年から59年にかけて賠償をしはらった形式をとった日本が正式に賠償をはらったのは,この4カ国だけだ。それでは,そのほかのアジア諸国とは,どう話をつけたのか。まずカンボジア,ラオス,マレーシア,シンガポールなどには,1950年代後半から1960年代にかけて,経済援助や技術協力などを行なうことで賠償問題を「解決」した。
また韓国とは,1965年に日韓基本条約を結んださい,韓国に経済援助を行なうことで,賠償問題は解決ということにしてもらった。中国とは,1972年の日中共同声明で,中国に賠償を請求を放棄してもらい,日本は中国に経済援助を行なった。また1975年にベトナム戦争が北ベトナムの勝利に終わって,南ベトナム政権がなくなったあとは,統一ベトナム政府に無償経済協力をした。

こんな具合で,とにかくほぼひととおりの国々と,日本政府は賠償について外交的に話をつけ,国交を回復させた。日本政府が,「賠償問題は外交的に解決済み」というのは,こういう経緯をふまえてのものだ。
しかし,こうしてしはらわれた賠償や援助は,戦争で相手国がうけた被害からくらべれば,少ない金額だった。また,さっき説明した役務賠償や経済・技術協力などは,日本経済の復興や,日本企業がアジア各地に進出していくのに役立った。

1960年代のはじめに外務省条約局長だったある官僚は,後年のインタビューでこう述べている。「基本的に日本の品物,役務,機械,サービスということであれば,これは将来日本の経済発展にむしろプラスになる。従って,経済協力という形は決して日本の損になるわけじゃない。相手の国に工場ができ,日本の機械が行くということになれば,さらにそれにつけ加えて,修繕のために日本から部品が出るとか。工場を広げるとすれば,日本から同じ機械が出るとか」。日本の財界でも,賠償や経済・技術協力にたいして,「先行投資と考えれば安い」といった意見がおおかったという。
さらにいえば,アジアの西側陣営の団結を優先するというアメリカの基本方針が,こういった個別交渉を円滑に運ばせた背景にあった。
フィリピン,韓国,南ベトナムなど,1950年代から60年代にかけて日本が交渉を進めた国ぐにの政府は,親米独裁政権がおおかった。だからアメリカは,アジアの西側陣営の内輪もめがおきないように,必要な場合にはこれらの国に圧力をかけたりした。西側陣営ではなかった中国についても,先にアメリカのニクソン大統領が中国を訪問して,米中の和解があってから,日本も日中共同声明にこぎつけた。

こうして日本は,やはりアメリカの後ろ盾を活用しながら,アジアへの戦後賠償を軽くすませ,あるいは経済進出の足がかりにして,経済成長をなしとげることができた。しかし,こうして各国の政府といちおうは話をつけても,戦争で直接に被害をうけた人たちは,必ずしも納得していなかった。
第一には,さっきも述べたように,賠償金額の安さがあった。たとえばフィリピン政府は,1952年から日本政府と賠償交渉を開始したとき,80億ドルを請求した。ところが4年にわたる交渉の末,1956年に日本が認めた金額は5億5千万ドルだった。
また第二に,賠償の内容も,しこりを残した。1980年代までのアジア諸国では,とにかくアメリカの国際戦略にしたがって共産主義と対抗してくれればよいということで,反共を掲げた独裁政権がアメリカの支援をえて,政治をしきっていることがおおかった。そして日本からうけとった賠償や援助は,こうした独裁政権が勝手に使ってしまい,戦争で被害をうけた人々には渡らなかったことが少なくなかった。
例えば,フィリピンの場合でも,歴代の独裁政権が日本からの賠償を自分たちの政策のために使ってしまい,戦争で被害を受けた個人への直接保証はゼロに等しかった。もともとフィリピン国民の間には,サンフランシスコ講和条約に対して,「アメリカがなぜ,敵国だった日本を贔屓にするのか」という批判が多かった。そのうえ個人への補償もされなかったので,戦争被害者には「賠償を受け取っていない」という思いが残った。
そのほか経済援助などで話をつけた国では,例えばマレーシアには船を二隻わたし,シンガポールには造船所を建設するなどのかたちで実行された。そのため,戦争で被害を受けた個人には,補償は回ってこなかった。
また韓国政府は,日本への「強制連行」などで労働させられた人々や,日本軍に入れられて軍人や軍属にさせられた人々などの補償金として,7億ドルを要求した。ところが日本の大蔵省は,1600万ドルしか払わないと試算した。
両国でもめているのをまとめさせたのは,アメリカの圧力だった。アメリカにしてみれば,東アジアの西側陣営の国同士が,喧嘩をしている状態は望ましくない。そこでアメリカは,韓国政府に対して,日韓関係の「正常化」に努力しなければ,韓国への経済援助を打ち切ると圧力をかけた。
こうして韓国は,日本と妥協しなければならなくなった。結局日本は韓国に「賠償」ではなく「経済援助」というかたちで,3億ドルの無償供与,2億ドルの有償援助,1億ドル以上の資金協力を与えるということにして決着をつけた。
しかし,ここでも経済援助の大部分は,当時の韓国の軍事独裁政権が自由に使ってしまった。またそもそも,アメリカは韓国に経済援助を行なうよう日本政府にも圧力をかけたのだけれど,それは当時激しくなりつつあったベトナム戦争への韓国軍の派兵を実現させるための,資金づくりが目的だったといわれる。そうした経緯のため,戦争や植民地支配で被害を受けた人への補償に回されたお金は,無償供与3億ドルのうち,たった5.4パーセントだった。
しかしそれは,日本が統治していた時代の債権の所有者など財産被害者や,終戦までに死亡した人に支払われただけで,日本軍の「従軍慰安婦」にされた人や,広島や長崎で原爆の被害に遭いながら生き残って帰国した被爆者たちなどには,なんの補償もなかった。こうした日韓条約には,韓国内部でも反対が強かったのだけれど,当時の韓国の軍事独裁政権が反対運動を弾圧してしまった。

そして,こうしていったん各国政府との交渉が成立したあとは,それぞれの国の被害者たちの不満は,各国の政府が押さえつけてくれた。
例えば韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会長は,「74年に釜山犠牲者集会で,『日本に責任を問うべきだ。日本領事館に行こう』と言ったら,たちまち[韓国の]警官に逮捕された。私たちへの妨害は,88年,盧泰愚大統領による民主化まで続いた」と回想している。韓国政府にしてみれば,韓国政府と日本政府が結んだ条約に文句をつけるような運動は,韓国政府に対する反政府活動であり,アジア西側陣営の団結を乱す行為だ,とされていたわけだ。
同じようなことは,アジア各地であった。さっきから述べているように,朝鮮人や台湾人は,戦前は名目的には「日本人」とされていたので,戦争中に日本の兵隊や軍属にされてた人が多い。しかし日本政府は,彼らは1952年以降は日本国籍を失い,「日本人」でなくなったという理由で,日本の元軍人や軍属に支払った恩給など出していない。
当然ながら,韓国や台湾の元日本軍人・軍属などには,日本政府から恩給を支払ってもらいたいという要望が潜在的にはあった。しかし台湾の元日本軍人・軍属遺族協会の人は,80年代までの国民党の独裁下では,「政治活動をすれば投獄された。われわれの対日請求は,国民党政権から徹底的に妨害された」と述べている。

(中略)こうして冷戦の間は,アジア各地で戦争の被害を受けた民衆の声は,現地の政権によって押さえられていた。その間に,日本は「アジア唯一の西側陣営の先進工業国」として,経済成長ができたわけだ。日本が経済大国になれたのは,もちろん日本の人々の努力の結果であるけれど,こうした冷戦下の国際情勢でうまい位置を占めていたことも一因になっていたことは,覚えておいていいことだ。

『博士の異常な健康』

水道橋博士(浅草キッド)『博士の異常な健康』(アスペクト 2006)を読む。
著者の水道橋博士は,年齢の割に見た目も若々しく,健康的な生活を送っていることで知られる。プロテイン入りのシャンプーによる毛生えや近視矯正手術,胎盤エキス注射,ファスティング(断食),バイオラバー,加圧式トレーニングなど,最新の健康術が紹介される。特に断食は精神的な意味ではなく,栄養や消化の側面から科学的に研究され,不足する栄養を摂りつつ健康的に脂肪を落とすダイエットメニューとして愛好者が増えているという。是非取り組んでみたい。

なお,章の合間のコラムで昔のたけし軍団での撮影の様子が語られる。現在はバラエティ番組の撮影中に事故が起きたら,すぐにスタッフの責任問題に発展するが,昔といっても,1980年代の芸能界は「怪我と弁当は手前持ち」の発想で,病院送りになっても責任も保障もない世界であることが分かった。

15年前,「人間サイコロ」という企画で,一辺2メートルの巨大サイコロの中に入れられ,階段や坂を落とされるというロケを毎週やらされていた。
その日も,豪雪の中の雪山の傾斜角30度を越える急斜面の大スロープからサイコロを落とされ,途中,命の危険を感じ,サイコロの蓋を蹴破って飛び出し,危うく一命をとりとめたのだが,全身打撲により,そのまま翌日のスタジオで一歩も動けなくなり病院へ直行。
2度目は,元・新日本プロレスのレスラーのキラー・カーンとの絡み。身長195センチ,体重140キロの巨体から繰り出すアルバトロス殺法,ダブルニードロップからモンゴリアンチョップの餌食となり,そのまま身動きができなくなり再び病院送りに。
その後,腰は悪化の一途を辿り,13年前,正式に椎間板ヘルニアと診断され,ドクターストップ。