日別アーカイブ: 2018年12月23日

『爆笑問題の日本史原論グレート』

爆笑問題『爆笑問題の日本史原論グレート』(幻冬舎 2002)を読む。
シリーズ第3弾ということで、教科書には詳しくは載っていない歴史上の人物を取り上げ、漫談調に解説が加えられる。徳川家康や宮本武蔵は別格として、内村鑑三、道鏡、出雲の阿国、滝沢馬琴、伊能忠敬、安倍晴明、石原莞爾、由比正雪、真田幸村、北条時宗の12人である。
印象に残った箇所を書き留めておきたい。

  • 徳川家康:冷酷・狡猾な策を弄するところから「狸おやじ」というあだ名も
  • 内村鑑三:愛国主義者かつキリスト教徒で、日露戦争に反対し、足尾銅山鉱毒事件でも闘争
  • 道鏡:時の女帝・孝謙上皇と性的関係があったとも言われ、孝謙上皇は天皇位まで譲ろうとした
  • 出雲の阿国:歌舞伎の創始者とも言われる女性であるが、晩年の詳細は不明
  • 滝沢馬琴:28年間に渡って里見八犬伝を書き続け、日本初の専業小説家となる
  • 伊能忠敬:伊能図をもとにした地図が公判されたのが1867年、一般向けの販売は1871年
  • 安倍晴明:生前の詳細は不明で、没後に伝説が加えられていったのでは
  • 石原莞爾:努力家で神経質で仕事熱心な東条英機に比べ、天才型で豪快で風変わりな石原莞爾
  • 由比正雪:江戸・京都・大阪で一斉に爆破テロを起こして幕府を倒そうとクーデターを計画
  • 真田幸村:サナダムシの語源は真田昌幸の刀の柄に巻いていた紐の形に似ていたからとも
  • 宮本武蔵:吉川英治の小説の影響が強く、剣豪のイメージも創作によるものか
  • 北条時宗:生誕時に諏訪湖に突然何百艘もの船が出現したという伝説に彩られる

「普通の人々が主人公の社会とは」

本日の東京新聞朝刊に、哲学者内山節氏のコラム「時代を読む」が掲載されていた。
月1回ながら、現実社会の動きから少し俯瞰して問題点を提起している。相も変わらず分かりやすい文章なので、練習に書き写してみたい。

内山氏の指摘するように、感情的な物言いをする人を称賛するような雰囲気が、ここ数年特に強くなってきたように感じる。政治家や経営者だけでなく、芸能人やスポーツ選手も露骨に感情的なパフォーマンスを「演出」するようになった。つい先日も、トランプ大統領を真似したのか、日本のクジラ肉食文化が理解されないと、国際捕鯨委員会(IWC)を脱退する旨の発表があった。捕鯨の是非はさておき、国際的な議論の場を抜け出すというパフォーマンスは頂けない。議論は尽くすものであり、逃げるものではない。感情を露わにすることが、素直で正直な人柄だと受け取ってしまうネット社会のムードに少し注意が必要だ。

 インターネットが普及しはじめたとき、それは世界を変える夢の道具のように言われたものだった。世界中のどこからでも、誰もが発信できる。情報発信では大都市と田舎の格差はなくなり、国境を越えた世界市民の時空が広がっていく。こんな解説をしばしば耳にしたものだった。人々の間を正しい情報が行き交い、理性的な議論の場がつくられていくことが、インターネットに期待されていた。

だが、期待通りにはいかなかった。むしろ、自分の感情にもとづいて発信し、自分の感情に合うものを検索する、感情のための手段としての利用が広がっていった。

それは世界に、無視できない変化を与えたのかもしれない。なぜなら、自分の感情だけを判断基準にして行動する人々を、大量に生みだすことになったからである。少し前までは、感情よりも理性が重視される時代だった。感情だけでものを言うのは、恥ずかしいことだとされていた。ところが感情よりも理性が上に立つと、理性的な意見を述べるための作法に習熟していない人たちは、社会から疎外されていく。「知的」な議論をするための素養が必要になり、それが「エリート」の支配を生みだしてしまうのである。理性重視の時代は、自分は社会の主人公にはなれないと感じる、大量の人々を生みだしてしまっていた。

近代的な世界では、たえずこのことへの不満をもつ人々がいた。政治も思想、理念、メディアを動かしているのも「知的エリート」たち。そういう構造への不満が、社会の奥には鬱積していたのである。

インターネットは、このような構造からの「解放」をもたらした。「知的エリート」に支配されることなく、自分の感情をそのまま発信できるようになったのである。感情を判断基準にして行動する人々がふえ、それが深刻な感情の対立を広げていく、そんな世界がここから生まれた。

アメリカのトランプ大統領を支えているのも、けっして少数派とは言えないアメリカの人たちの感情だ。日本でも中国になめられるなという感情、北朝鮮や韓国に対する感情などが安倍政権を支えている。その中国や韓国もまた、「国民感情」が大きな力をもっている。ヨーロッパで台頭する国家主義勢力の基盤も、いまの状況に不満を持つ人々の感情だ。

社会への不満やいらだちがそのまま発信され、それがおおきな渦となって社会を動かす。政治は、それを助長する扇動政治の性格を強めていく。

今年は、世界はいまこのような方向に向かっているのだということを、より明確にした年だったのかもしれない。感情の対立がそのまま容認される時代が、私たちを包んでいる。

とすると現在私たちは深刻な課題を背負わされていることになる。むき出しの感情対立が世界を動かすのが、よいはずがない。だが、理性が支配することがよかったのか。近代社会は、理性による秩序づくりをめざした。それが近代の理念だった。だがそれは理性的であるという規範を牛耳る人たちの支配を生み、「エリート」と主人公にはなれない人々の分裂をつくりだした。

おそらくこの対立は、普通の人々が社会の主人公になる仕組みが生まれないかぎり、解決されないだろう。理性による支配ではない協同の仕組みを、私たちは見つけ出さなければならなくなった。