月別アーカイブ: 2017年9月

『先住民族の叡智』

月尾嘉男『先住民族の叡智』(遊行社 2013)を読む。
ここしばらく膝の怪我もありバタバタしており、全く本を読む余裕すら失っていた。1週間くらいかけて途切れ途切れページを繰っていった。

世界中をカヌーやクロスカントリーで回りながら環境保護や地域計画に取り組む著者が、ニュージーランドの先住民族のマオリ族や米国南西部の先住民族のナヴァオ族、オーストラリアのアボリジニ、北アフリカのベルベル人などが暮らす地域に訪れ、周囲の生態系を全く乱さない生活様式や7世代後の子孫に配慮したリサイクル社会の実情などを紹介する。

月刊誌に連載されたコラムをまとめたものだが、内容的な重複が多くあり、書籍化する際には再編集を加えた方が読みやすいであろう。

「紛争激化で利益増 疑問」

本日の東京新聞一面は、公的年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、軍事部門の売上高が世界で10位以内に入るすべての企業の株式を保有しているとの内容だった。10社の中には、ミサイル防衛システムやステルス戦闘機F35を製造するロッキード・マーチン社や垂直離着陸輸送機オスプレイの開発を担ったボーイング社、巡航ミサイル・トマホークの製造元であるレイセオン社などが含まれる。

趣旨がずれてしまうのだが、解説の記事の構成が、小論文の見本のようなものであった。起承転結の4段落構成をきっちりと遵守しており、指導の材料に是非使ってみたい。

公的年金は、高齢者の生活を支える社会保障制度の中核。積立金を確実に運用して、利益を上げることの重要性は疑いない。だが、それだけでいいのか。

GPIFによる株式保有が判明した軍事関連企業が本社を置く欧米の国々は、過激派組織「イスラム国」(IS)の掃討作戦に有志国連合として参加するなど紛争に直接関わっている。

各企業は紛争が激化するほど武器や装備品の売り上げを伸ばし、株価を上げる。株価が上がれば、GPIFの運用益も増える。

増え続ける高齢者を養うための年金積立金が、国民の知らないうちに「軍事支援」に転用されている構図は、倫理上許されるとは思えない。

現行法では、政治的な介入や担当者の恣意的な運用を防ぐため、業種を問わず企業株を自動的に購入する以外に選択肢はなく、こうした投資を排除できない。

日本国憲法は前文で、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と宣言している。年金財源確保のためなら、他国で紛争を助長しても仕方ないということにはならない。国会でのルール見直しの論議が急務だ。(中根政人)

『放送禁止歌』

森達也『放送禁止歌』(光文社文庫 2003)を読む。
2000年に解放出版社から刊行された本の文庫化である。テレビ・ディレクターの著者が、テレビやラジオで「自主規制」されている「放送禁止歌」についてドキュメンタリー番組を作成するにあたって、各方面への丁寧な取材や著者自身の考え方の変化などがまとめられている。
特に、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」や被差別部落を題材とした「手紙」の作詞・作曲を手掛けた歌手の岡林信康氏への思いと、京都市伏見区竹田地区に伝わる「竹田の子守唄」の解題の2つを軸に話が進んでいく。アメリカの放送禁止歌の事例や、内容の如何を問わずにある特定の言葉が入っているだけで規制されてしまう実情も紹介される。
著者の放送に対する実直な姿勢が伝わってきた。

『君たちはどう生きるか』

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫 1982)をパラパラと読む。
中学生のコペル君が自分の生活の中でふと感じた疑問から、数学の先生のヒゲが床屋につながり、粉ミルクがオーストラリアにつながっていき、時代や地域を越え、天文学や宗教学、歴史学をさまよいながら自分なりの答えを見つけ出す思想の旅日記である。
解説の中で丸山真男氏は、コペル君の科学的思考のプロセスに賛辞を送った上で次のように述べる。少々長いが引用してみたい。

天下り的に「命題」を教えこんで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのではなくて、逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄を手がかりとして思索を押しすすめてゆく、という教育法は、いうまでもなくデュウィなどによって早くから強調されて来たやり方で、戦後の日本でも学説としては一時もてはやされましたが、果してどこまで家庭や学校での教育に定着したか、となると甚だ疑問です。むしろ日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。いまや悪名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、その傾向が教育の平等化によって加熱されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。そうして、こういう「知識」−実は個々の情報にすぎないもの−のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育への振興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、-そのイデオロギー的内容をぬきにしても-あの、私達の年配の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配にありません。

わたしはこういう奇妙な意味での「知育」に対置される「道徳教育」の必要を高唱する人々にも、また、「進歩的」な陣営のなかにまだ往々見受けられる、右と反対の意味での一種の科学主義的オプティミズム-客観的な科学法則や歴史法則を教えこめば、それがすなわち道徳教育になるというような直線的な考え方-の人々にも、ぜひ『君たち…』をあらためて熟読していただきたい、と思います。戦後「修身」が「社会科」に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊の中に先取りされているからです。

丸山氏の指摘する、「コペル君の高度な問題提起がコペル君自身の自発的な思考と個人的な経験をもとに展開していく」ように、「じかの観察から出発して、そこからいろいろな物事を関連づけ、その意味をさぐってゆく、という方法」を体現する「社会科」に統合された本当の意味というのものをこれからも受け止めていきたい。

『イラクの小さな橋を渡って』

池澤夏樹・文/本橋成一・写真『イラクの小さな橋を渡って』(光文社文庫 2006)を読む。
イラク戦争開戦直前の2003年1月に刊行された本に付記のあとがきを加えて文庫化されたものである。
イラク来訪の理由を著者は次のように述べる。

 2001年の秋から、「ニューヨーク・タイムズ」は世界貿易センタービルの被害者一人一人の人生を詳しく辿る連載記事を載せた。テロでも戦争でも、実際に死ぬのは家族も友人もある個人だ。だからテロというものを徹底して被害者の立場から、殺された一人ずつの視点から見るという姿勢は大事だ。しかし同じ新聞がアフガニスタンの戦争のことは抽象的な数字でしか伝えない。アメリカ軍が放つミサイルの射程はどこまでも伸びるのに、メディアの視線は戦場に届かない。行けば見られるはずの弾着の現場を見ないまま、身内の不幸ばかりを強調するメディアは信用できない。だから自分の目で見ようと思ってぼくはイラクに行った。

そして、実際にイラクを訪れ、サダム・フセイン政権下で意外と豊かな暮らしを営んでいたイラク市民の姿を通じて、次のように述べる。

 イラクの子供たち、そして大人、彼らの普通に人間的な暮らし、それをぼくは見た。彼らのなかなかいい暮らしぶりに感心した。イスラム圏の多くの国の中で自分はここがいちばん性に合うと思った。本文にも書いたとおり、サダム・フセイン政権の独裁がどこまで国民を不幸にしているかを見届けることはできなかったけれど、すべての国民が監視社会の圧力の中で呻吟しているのではないかということはわかった。そして、自国の政権による圧制よりも他国から飛んでくるミサイルの方がより多くの不幸を生むだろうということも。

そして、米国によるイラク侵攻について次のように語る。

 今の事態をアメリカの利害という視点から見ると、すべてがあまりに明快になってしまう。アメリカを動かしている原理は中東のエネルギー資源の確保とイスラエルの存続という二つだ。そのためには中東にアラブ圏をまとめる指導的な国が生まれるのは好ましくない。だからイランにホメイニが登場した時はイラクを煽動してイランをつぶそうとした。しかしイラクが強くなりすぎるのも困る。そこで湾岸戦争に誘い込んでサダム・フセイン政権の力を殺ぎ、今は大量破壊兵器を理由に武力で倒そうとしている。イスラエルが核兵器を持っていることは誰もが知っているけれども、日本を含む西側諸国がそれを論じることはない。そういう状況のうちに、また何十万のイラク国民が殺されようとしている。

池沢氏が本書の中で繰り返し指摘するように、新聞やテレビで詳しく報じられる各国政府と国連とのかけひきから政治を考えるのではなく、まずは戦争の現場となる場所で暮らす戦争に関係のない子供たちと同じ視点に立って、大国のパワーバランスの犠牲になる国や地域を取り巻く状況を肌感覚で分析するということが大事である。