月別アーカイブ: 2015年8月

『われら青春の途上にて』

李恢成『われら青春の途上にて』(講談社文庫 1973)を読む。
1969年に発表された表題作のほか、1970年に発表された「死者の遺したもの」「証人のいない光景」の2作が収められている。
「われら〜」は、作者の自らの経歴に根ざしたものであり、1955年(昭和30年)に上京し、昼は働き夜は代々木学院に通って大学を目指す朝鮮籍の若者の生活を描く。日本人にも、封建的な朝鮮人の家族にも、東京の生活にも馴染めず、高校を卒業したものの大学にも行っておらず、朝鮮戦争が終わったにも関わらず日帝侵略時代から続く在日差別を味わいながらも、将来を目指す主人公の若者の姿が印象的であった。
主人公の南洙は心の中で次のように述べる。

南洙は自分がなぜ生きているのだろうと考えるときがあった。勉強するためだと自答してみる。では何のために勉強するのだ。きっと朝鮮人になるためだと自答している。それが自分のペンダント(大事なもの)なのだった。それではどのような朝鮮人になるのかと重ねて訊ねてみる。そこで南洙は行き詰った。ただよみくもに、父のようなあの古い家の朝鮮人にはなりたくないと疼くように思うのだ。

「死者〜」は南北統一を希求した父の葬儀を巡るゴタゴタが描かれる。父の葬儀を共同葬儀にしようという提案に対して、朝鮮総聯に所属している弟の私と、民団に所属している兄の確執が表面化する。同じ兄弟でも政治的に分断されてしまっている悲哀が丁寧に綴られている。

『樹氷』

五木寛之『樹氷』(文藝春秋 1970)を読む。
現在も刊行されている「スキージャーナル」(1968.10〜1970.4)に連載された小説である。
全共闘運動に代表される反体制の気風が吹き荒れた時代の最中の作品であり、体制・反体制や資本主義の是非がテーマとなっている。
登場する4人の男は元々全員がアマチュアのスキー愛好家であったが、否応無しに政治や経済、マスコミ、商業スポーツなどの資本主義の体制側に組み込まれていく。徹底して国土開発に突き進んでいく時代の中で、一人は突き進み、一人は立ち止まり、一人は逡巡し、一人は脱落していく群像劇となっている。
また、最後の大勝負に出た藤沢の命運を握る秋山の滑降のシーンが秀逸であった。将来を託した4人の男の緊張感が「すっげー」伝わってきた。
五木氏の時代を感じるとる鋭敏な感覚が覿面に表れた作品だと思う。
高校時代に読んだのかどうか記憶にないが、もし読んでいたとしたら、当時の自分のものの考え方に少なからず影響を与えた作品だったのではないか。

印象に残った主人公のセリフを書き留めておきたい。デモのために渋滞に巻き込まれたタクシーの車窓から、デモの列をじっと眺めているテレビ局員北沢のセリフである。時代がかったものであるが、今現在の私たちに突きつけられている疑問でもある。

「ただ、おれが考えてることはこうなんだ。スポーツ自体は、それ自身として楽しいし、素晴らしい。それは本当だ。だからといって、それだけに熱中していられる連中が、その素晴らしさと遠い所にいるデモの列を他人のように見ることができるものかどうか。ひょっとすると彼らがスポーツ自体の興奮にゆだねて青春をそれにかけることが出来ること自体、反戦や反体制の目的でデモっている彼らの行為に守られているのじゃないか。平和あってのスポーツだからな。それが、なぜかスポーツマンは、体制側と密着してノンポリのグループに属してしまう傾向がある。ノンポリならいい。むしろ保守の側に身をおこうとする気配があるのは、なぜだろう。」

『エディプスの恋人』

筒井康隆『エディプスの恋人』(新潮社 1977)を読む。
この『エディ〜』は、特殊な精神感応能力を持った火野七瀬を主人公とした『家族八景』、『七瀬ふたたび』に続く、「七瀬三部作」と呼ばれる作品の最終楽章にあたる。
浪人生の頃に読んだ際、活字文学の持つ可能性の大きさを感じ、弱気になりがちな浪人生の心の中に文学を学ぶことへの意欲を掻き立てた作品である。

但し内容は上手い具合に忘れていたので、最後までワクワクしながら読むことができた。
今読み返してみると、アニメ「魔法少女まどかマギカ」のような神の領域に近づく意識や、同じくアニメ「エヴァンゲリオン」に登場する綾波レイのような自己の存在感への懐疑など、1990年代、2000年代のアニメや漫画、小説を先取りした内容に驚きを禁じ得なかった。

東京ジョイポリス

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家族を連れて、お台場にある東京ジョイポリスへ出かけた。
確か、10数年前に一度行ったことがあるのだが、何も乗らずに出てしまったのだろうか、あまり記憶に残っていない。

子どもが幼稚園から帰ってきて昼過ぎから出発したのだが、首都高はガラガラでカラオケを楽しみつつ3時には着くことができた。
未就学児の入場が無料だったので、お得かと思っていたのだが、最近のアニメキャラのゲームやコスプレなどが中心で、高校生や大学生の若者向けの内容になっており、幼稚園児や付き添いの40代の大人が楽しめるようなものは少なかった。

それでも、せっかく来たのだからと、無理して上の子とトランスフォーマーのアトラクションにチャレンジした。。。360度ぐるぐると回転するコックピットに乗って画面の敵を倒すゲームなのだが、途中から気分が悪くなり、仕舞いには吐き気を催してベンチでぐったりとなってしまった。
元々車酔いが酷い体質なのだが、年齢なのか、疲れなのか、気持ちも萎えてしまい、もう遊園地は懲り懲りだと内心毒づきながら家路に着いた。

『贄門島』

内田康夫『贄門島』(文春文庫 2006)を読む。
初出は『週刊文春』(2001.9〜2002.11)に連載された小説である。上下巻で読み応えがあったが、一気に読み終えてしまった。
房総半島の南端沖に浮かぶ美瀬島という架空の島を舞台にした推理小説である。フィクションなのだが、2001年・2002年当時の北朝鮮拉致問題の状況や、北方四島に絡む鈴木宗男代議士の斡旋収賄容疑などのタイムリーな事件を踏まえつつ、内田氏自身の政治的な考えも披瀝されている。
最後にあっと驚く結末が用意されており、推理小説の範疇を超え、広く社会問題に関心を投げ掛ける政治文学と言ってもいいくらいである。
文庫本の「自作解説」の中で作者は次のように述べる。

 ある時期から−−というより、かなり初期の段階から、僕の作品の傾向は変化してきている。最初の頃は、ごく個人的な怨恨や欲望が犯行動機を形成していたのだが、そうではなく、背景にある大きな社会的なものの存在が、事件に影を投げかけている作品が好きになってきた。トリックの面白さや不気味さだけのミステリーに飽き足らなくなったと言ってもいいかもしれない。推理を伴った物語全体の面白さこそが「推理」+「小説」の本旨だと思えるのである。
 「社会派」というジャンルがあるが、僕は意識して社会派であろうとは思わない。ふつうに推理小説を書いていて、その結果、社会派風に読まれることはあるかもしれないが、それが喜ぶべきことなのか、不本意なことなのかも、よく分かっていない。(中略)
 とはいえ『贄門島』は、僕のいわゆる社会派的傾向の作品のひとつの到達点として、僕なりの記念碑的な想いを抱いている。