月別アーカイブ: 2006年12月

『FOR BEGINNERSシリーズ 障害者』

後藤安彦/文・貝原浩/絵『FOR BEGINNERSシリーズ 障害者』(現代書館 1995)を読む。
脳性麻痺という「障害」を抱えた当事者として、車椅子の不便さや、人を傷つける「おそれ」があると精神病認定者を強制入院させてしまう法の危険性、また親の保護を巣立っていく自立の難しさなど経験を踏まえて論じる。障害者だからといって結婚や出産を制限されたり、逆に塙保己一といったように障害者のあるべき「理想」的生き方を強いられるのは個人の人権を踏みにじるものだと、著者は口吻するどい。

「障害者自立支援法」

本日の東京新聞朝刊に、今年の4月より施行された「障害者自立支援法」の問題点を指摘する記事が掲載されていた。「自立支援法」はこれまでの障害者保護から、ノーマライゼーションに則った障害者の自立を促すものだと厚労省は宣伝するが、実態は予算もやる気もない市町村に丸投げしている形だ。結果、障害者の自立どころか、一割負担ルールに耐えられずサービス利用を手控えざるを得ない利用者が激増し、果ては通所施設で働く職員の人件費がカットされ、福祉業界そのものが地盤沈下しているというのだ。

障害者自立支援法の第3条では「すべての国民は、その障害の有無にかかわらず、障害者等がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営めるような地域社会の実現に協力するよう努めなければならない」と定め、市町村に対しては第2条にて「障害者が自ら選択した場所に居住し、又は障害者若しくは障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、当該市町村の区域における障害者等の生活の実態を把握した上で、公共職業安定所その他の職業リハビリテーションの措置を実施する機関、教育機関その他の関係機関との緊密な連携を図りつつ、必要な自立支援給付及び地域生活支援事業を総合的かつ計画的に行うこと」と定めているが、実態はお粗末な限りである。
障害者自立支援法の理念はあくまで生かしつつ、現状改善を目指すべきだと考える。そのためには事業所への報酬の一割負担ルールを早急に見直し、施設への補助を増額し、財政的裏付けのある自立政策をとるべきであろう。

「ぴったり感」

本日の東京新聞朝刊に、女子少年院法務教官を勤めた魚住絹代さんの「ぴったり感」と題した思春期の子どもが使う言葉に関する話が載っていた。なるほどと頷くところも多く興味深かった。

子どもたちは本当に、深い意味なく「ノリ」で、「キモい」「うざい」「ムカつく」といった言葉を日常的に使う。黒板の字が見えないとき「うざ」。お弁当のおかずがこぼれたら「キモ」。携帯忘れたら「ヤバ、ムカつく」。
本来の言葉の意味や用途とは違うことに、子どもたちの言葉の感覚がまひしていると感じ、同時に、物事の受け止め方が両極端に単純化していることにも考えさせられる。子どもたちは、ちょっといいと思うと、「サイコー」「めっちゃイイ」と称賛するが、ちょっと違うと「キモイ」「サイアク」と全否定してしまうのだ。
基準は「自分」。自分の予想や思い、好きなこととぴったりであれば、「サイコー」と盛り上がるが、ちょっとでも自分と違うと違和感を覚え、切り捨ててしまう。さっきまでの「サイコー」「親友」も、瞬時に「キモい」「サイアク」「絶交」となってしまうのだ。そして、どちらでもない繊細なニュアンスは、ひとくくりに「微妙」という言葉で片付けられてしまう。

魚住さんは、そうした子どもたちの言葉の同調圧力の中で、大人以上に違いを許さない雰囲気が子どもたちの中に醸成され、居場所を見つけられない子どもがいると心配する。周囲に合わせてテンションを高くし、笑顔で周りの雰囲気を壊さないように必要以上に気を遣わざるを得ない子どもたちが増えていると指摘する。そして「安心して育ち、学び合える集団をつくるためにも、人との付き合い方、物事の受け止め方、気持ちの伝え方などのソーシャル・スキルを育む取り組みが必要である」と述べる。

『少年法』

澤登俊雄『少年法:基本理念から改正問題まで』(中公新書 1999)を3分の1程読む。
本論の途中から細かい司法手続きの話になって頭に入らなくなったので、全部すっ飛ばして残りの結論だけ読んだ。
昨今凶悪化していると報道される少年犯罪の実態を諸外国との緻密な比較を通して分析し、少年法改正を巡る保護主義と厳罰主義の実際的な運用と効果を丁寧に論ずる好著である(はずだ)。著者は、マスコミで声高に少年犯罪の危険性が叫ばれるが、日本の犯罪現象は諸外国に比べ非常に安定した傾向を持続しており、少年犯罪自体も諸国と比べよい状況にあると結論づける。その理由として少年法、少年裁判における教育的機能が有効に働いてきた背景があると述べる。
そして、マスコミの安易な少年犯罪の厳罰化論調に釘を刺し、これまで警察、家庭裁判所、家庭裁判所調査官らによって積み上げられてきた保護手続きを優先しながら、家裁調査官の位置づけをはっきりさせ、付添人や否認手続などの犯罪少年の裁判権を拡充するような具体的手立てが必要であると結論付ける。

保護主義と適正手続きとの関係について、両者の両立ないし調和のあり方について、実務で利用できるような具体的な準則をどんどん作り上げていくことが必要です。この問題は、従来から、家庭裁判所の機能として、司法機能とケースワーク機能があり、この両者の調和こそ保護手続の真髄であるように説かれてきたところです。

『アイデンティティの心理学』

鑪(たたら)幹八郎『アイデンティティの心理学』(講談社現代新書 1990)を読む。
昨年京都文教大学を退職した臨床心理学者の著者が、「モラトリアム」で有名なE.H.エリクソンの下で学んだ研究を踏まえ、人間の行動原理、生き方そのものについて論を展開する。著者はエリクソンの「アイデンティティ」理論を援用しながら、登校拒否や対人恐怖症、犯罪などに至る心理的構造を明らかにしている。著者は人間の全ての行動の根底には、自分を証明したいという否定しがたい動機があると述べる。

人は自分を何とかして証(あか)ししたいという根源的欲求に、抵抗できないほど強くひかれる。人生は自分にとって唯一回であって絶対に繰り返さない、従ってとり返しのつかないものだ、という自覚も、深く以上のことに根ざしている。僕たちは、人間が幾億人いようとも、自分であって絶対に他の人とは、置きかえられない人間にならねばならない。僕はこの人間存在の極限に追いつめられたことを喜び、また悲しむ。……
一人の人間が、誰とも同じ、何の特権もない一人の「人間」であって、しかもその同じ人が、自分は自分自身であって、他の何でもない、という個性のもつぎりぎりのものを意識した状態なのだ。

上記は森有礼初代文部大臣の孫にあたる森有正氏の言葉である。著者は、東大在職中にフランスへ留学しそのままパリに居残った異色の経歴の森氏の生き方を紹介しながら、人間の生き方は常に他人から与えられる「予定アイデンティティ」と自分の責任による「選択アイデンティティ」のせめぎ合いだと結論付ける。森鴎外の『舞姫』における太田豊太郎を彷彿させる見解である。