まざねただし著『ワンマン私大の内幕』(エール出版)を読む。
組織の硬直化と馴れ合いの中でどこでも起こるようなことが述べられていた。「悪質大学」の浄化について対処療法的なことしか踏み込んでいないため面白くない。
「読書」カテゴリーアーカイブ
『恍惚の人』
有吉佐和子『恍惚の人』(新潮社)を読む。
20数年前のベストセラーであるが、なかなか面白かった。単なる「老人性痴呆症」の主人公を悲哀的に描いたのではなく、嫁である昭子さんの視点を通して、耄けてしまった舅の茂造が活き活きと描かれていた。また家庭内で「耄け老人」を抱える立花家の騒動を通して、女性を家庭に縛りつける家族制度や老いを迎える中年世代のぼやき、地域社会の希薄化、3世代家族のすれ違いが丁寧にかつ楽しく描かれていた。
『超能力は果たしてあるか』
大槻義彦『超能力は果たしてあるか』(講談社ブルーバックス)を読む。
本論の内容は主にテレビ番組での「超能力者」や「超常現象評論家」との対決を再録したものが多かったが、巻末のまとめに大槻氏の人柄が表れていて読後感がよい。少々長いが引用してみたい。
日本が敗戦を迎えたのは、私が小学生のころであった。それまで大人たちや教師たちは、「日本は、この戦争に絶対負けない。いまに必ず神風が吹く」と言っていた。しかし、日本に神の力は およばなかった。新学期になると、それまでの国語や社会の教科書は、黒い墨を塗るように指示された。それまでの日本の”神がかり教育”は否定され、破棄されたのだ。そして、若い先生は私たち生徒に向かって情熱を持って話した。「日本画戦争に負けたのは、科学の力の差だった。あの進駐軍のジープを見たか。あれが科学だ。これからはアメリカのように民主主義の社会、科学主義の社会を作っていくんだ。」と。私たちの世代は、この教えを固く守って、一心不乱に働いてきた。そして、その教えのとおり、日本には、まがりなりにも民主主義と科学文明が根づいて、今日の経済的、文化的繁栄がもたらされ、私たちの世代は、戦後の民主主義と科学主義の教育に誤りがなかったことを確信している。ところが、世紀末になるにつれて、これが少々おかしくなりだした。自民党による事実上の政権独裁が長く続き、政治的腐敗が目にあまる「民主主義社会」となった。そして、科学主義にも、一種の退廃性が、ひたひたとおし寄せている。その一つが若者たちの”理工系離れ”であり、もう一つが”オカルトブーム”である。民主主義と科学主義を信じて、この国の戦後の発展を担ってきた世代の一人として、私はこの現状に口をつぐんではいられない。しかし、私には民主主義の理想をとりもどす運動など、およびもつかない。ただし、科学文明の基礎である科学主義に挑戦する”カマキリ”のような「超能力者」たちの正体をあばき、若い人たちが科学合理的な考え方を否定することのないように努力することは、私にもできる。
確かに私など文系の人間は核開発や公害、兵器技術に対して、外野的発想からの批判しか出来ないが、科学技術の進歩に対して正しい目的を与えていくためには、幅広い問題の捉え方と連帯が求められる。
『仮面舞踏会』
横溝正史『仮面舞踏会』(角川文庫)を読む。
何回か述べたことであるが、戦後の混乱が殺人事件の舞台となっており、戦後の混乱から高度経済成長へと突っ走っていく日本人の世相がかいま見えて面白い。
『新世紀エヴァンゲリオン』
ここ3日ほどかけて『新世紀エヴァンゲリオン』を全てビデオを借りて見直した。
ツタヤで5000円もかかってしまった。『エヴァ〜』を見るのは3回目だが、4年ぶりであり、また映画版第25話、第26話は映画館で見て以来だった。第1話から第24話そして映画版第25・26話まで見て、その後テレビ版第25・26話を一気に通して見た。解説本ー兜木励悟『エヴァンゲリオン研究序説』(KKベストセラーズ)ーを片手にいろいろ考えながら見ることが出来た。
ちょうど4年前の夏に第26話「まごころを君に」を見た後、友人と『エヴァ〜』のテーマについて語った。個の尊重、個性重視が寂しさを生み、そして周りの人間と違うということが当人にどうしようもない孤独を与える。だから人は皆と違うことを欲しつつも同化して孤独を癒したいのだ。自分が寂しいと感じることから逃れたいのだ。生活の多様化・思想の自由化が逆に強力なナショナリズムや単一的な思想に流れていったことは、戦前のドイツにおけるナチズムや日本の国民精神運動に見られる。最後に綾波レイやシンジ君が心の同化を拒否したことで、庵野監督は一人一人が寂しくとも自らの世界観を構築し、その中で生きていくことの積極性を観客に訴えたのだ。テレビ版第25・26話にてシンジ君が、徹底した自己否定から「ここにいてもいいんだ」と自己肯定に至る独白シーンからもそうした現実立脚の積極性は伺われる。映画版最終シーンでシンジがレイとのATフィールドなき一体化を離れ、アスカを殺そうとするが、そこにシンジの自我の確立が見られる。そうした事を池袋の喫茶店で話した記憶がある。
しかし、今回ずっと一気に最終回まで見て、また違った感想を持った。ATフィールドなるものが「心の壁」であり、「ヤマアラシの針」がある限り、人は永遠に自分を分かってほしい、身近にいる人の心が分からないというジレンマにぶつかる。人は寂しさから逃れるためには、自分の世界に閉じこもるか、むやみに体を重ねるか、徹底した自己肯定に走るしか、現実を忘却するほど仕事に没頭するか、過去の記憶にしがみつくしかない。シンジ、ミサト、アスカ、リツコ、ゲンドウそれぞれがそうした寂しさからの逃避を行っていた。だから一緒になりたい。心のコンドームを取っ払って、孤独を「補完」」してほしいのだ。元来人は母親と一体であったのだが、成長していくに従って、父親がその母親との結びつきを切断してしまうのだ。だから人は母親とは違う「一体化」を求めるのだ。マザコンやアダルトチルドレン、パラサイトと呼ばれる「現代病」の多くは父性的な切断がないために、いつまでも心理的に母親の羊水に浸かってしまった状態にあり、「大人」になりきれないのだ。
「エヴァ」の最終回をどう読み取るのかという評論は無数にあるのだが、今最終回を見た直後なので、文章化されてないが、漫然と感想を連ねてみたい。エヴァは母親であり、エントリープラグのLCLは羊水であり、海のイメージであるということは、人類補完計画は太古の世界に戻るということを意味しているのか。地球上の陸上の生物は海の生物から進化してきたと言われている。陸地は地球上に大陸から孤島まで無数にあるが、海は一つである。陸に上がってしまったばっかりにばらばらになってしまった生物が再び海へ帰ることによって孤独を満たそうとしているのか。旧約聖書にバベルの塔についての記述がある。神に近づこうとしたばっかりに神の怒りによって言語がばらばらになり、そして気持ちがばらばらになり、国家間の戦争というものを生み出したのだ。人の心理が言語によって営まれる以上、言語の差異は気持ちの別離につながる。
しかしエヴァを見ながら、なぜかくも人は孤独を抱えているのか。これだけコミュニケーションツールが発達した今も、1000年前と同じ、いやそれ以上の寂しさを感じているのか。自己イメージの希薄化、自分の居場所の欠落、周りから評価されているのか否かに対する不安……。数え上げればキリがなく、また社会学的に、グローバルスタンダード、競争社会、脱ナショナリズム、コミュニティーの崩壊、インターネットや携帯電話による身体的な接触の減少等々論じることもできるであろう。これは私自身のちょっとした感想だが、我々の生活から生や死が遠いものになったことが、孤独の原因が分からない一つの原因ではないだろうか。医療の発達が生命の誕生と終末を非日常化した。病院と近代医学が、「生→死→生→死」という循環を「活⇔陰」という対立関係にしてしまった。「生と死は等価値」というカオルのセリフに、ものごころがついた人間にとって生も死も何か遠いものだ、そして同じものだということが伺われる。
最終回の「夢は現実の続き、現実は夢の終わり」というレイのバックグラウンドでのセリフが気になった。夢と現実の混同は中国の諸子百家の一人である荘子の蝶の論以降、文学において主要なテーマであり続けた。『エヴァ』のATフィールドを夢(異常)と現実(正常)の間の境界線、使徒と人間の境界線と考えるならば、使徒は人間の続き、人間は使徒の終わりとなる。
上記文章推敲せぬまま呆然と書き連ねたが、そろそろ夜明けが近い。夢の世界に帰ろうと思う……




