松本清張『表象詩人』を読んだ。
詩をモチーフにした作品で、大正期の事件を昭和の「現在」から振り返るというものであったが、その昭和がもうすっかり過去のものとなった現在に感じる違和感はもうすこし分析していく必要あり。
「読書」カテゴリーアーカイブ
『われら青春の途上にて』
李恢成『われら青春の途上にて』(講談社)を読む。
これまでの日本人が忘れてきた在日の問題、とりわけ日韓基本条約以前の、そしてサンフランシスコ条約締結以前の問題を強烈に浮かび上がらせている。収録作の一つである『死者の遺したもの』(群像1970年2月号)という作品は、在日の父親が急死し、その葬儀を総連と民団の共同葬で行ってはという提言を巡って、兄弟が政治に翻弄されながらその家族の絆を見つけて行くという話である。私たちがついつい見逃しがちな朝鮮戦争の問題に光を投げかけている。そういえば先日朝銀東京事件に際し、朝鮮総連の本部に警察が入ったが、歴史的側面から総連と民団について報道しているところはなかった。
先日生徒会の生徒と韓国大使館へ出掛けた。そこで韓国側の青年は日韓併合以降の35年の支配の歴史を忘れてはいけないことを強調していた。韓国がなぜ日本文化の流入を制限してきたのか、それは日本が植民地支配の際に言語を奪い、名前を捨てさせるという非道な行為に出たからだ。だからこそ来年のワールドカップを日韓の架け橋にしたいと結んでいた。私は韓国の高校生が統一についてどのような考えを持っているのかと質問したが、明確な回答は得られなかった。いずれにせよ、私たち日本人は統一の問題に関し、その大きな阻害要因となりうる、米軍の基地問題、安保に向き合わなくてはならないだろう。
『重箱の隅』
五木寛之『重箱の隅』(文春文庫)を読み返す。
タイトルのごとく暇つぶしのための本である。
『さらばモスクワ愚連隊』
五木寛之処女作品集『さらばモスクワ愚連隊』(講談社文庫)を十年ぶりに読み返す。
小説の内容よりも高畠通敏氏の解説の方が興味深かった。『艶歌』という作品について高畠氏は次のようにコメントを寄せている。
六十年代日本において、急速な農村分解と人口の都市集中が起るなかで、新しく浮かび上がってきた問題は、大企業の労働組合にも入れてもらえない臨時工や中小企業に働く未組織労働者の問題だった。それはまた、大学から中途で抛り出されて、転々とマスコミ産業を素手で渡り歩く五木自身の問題に他ならなかった。この視点に執着するなかで、五木には、今日の管理社会における基本差別が、組織に入っている人間と未組織のプロレタリアートの差別であり、それは、出世民主主義のルートにのったエリートと農村から流民化して都会に流れこむ大衆との差別として近代日本において本質的な問題であることに眼を開かせる。その問題をさらに社会的に掘れば、アメリカの黒人、日本の部落民の差別の問題につき当り、自身の中に掘れば、朝鮮からの引揚者として故郷を喪失し流民化した少年体験にも連なる。「デラシネ」「流民」「ルンペン・プロレタリアート」は、五木において同質のものとしてとらえられ、それこそが、五木のイメージにおけるサブ・カルチュアをになう大衆の原像となるのだ。
この中で、「近代日本の本質的な問題」を「組織に入っている人間と未組織のプロレタリアートの差別」とした高畠氏の指摘は評価に値する。これは大企業や労働組合、学生自治会だけの問題ではない。一般ピープルである私たち自身がいくつも抱えている問題である。近年東京・大阪の都市において、行政は「市民の生活を脅かす」という名目で「ホームレス」を駅・公園から追い出す施策を次々に打ち出している。最近は自立支援センターの開設など改善されてきているが、新宿や渋谷の駅・公園に機動隊が導入され強制排除されたことは記憶に新しい。しかしここでいう「市民」とは一体何なのだろうか。「市民」が「市民」でないものを排斥するという思想は容易にファシズムへと転化する。差別や抑圧は外見的な差異の少ないもの、に対する方が激化しやすい。身体「障害」者に対する差別よりも精神「障害」者に対する差別意識の方が強く働く。また明らかに人種が異なる者に対するよりも、外見にはあらわれない宗教や言語、政治や風俗といったイデオロギーを異にする者への抑圧意識の方が強く働く。高畠氏のいう「組織」を別の言葉で置き換えれば、そのまま21世紀の現代に横たわる様々な問題への警句となろう。
しかし、日本の労働構造の中で最底辺に位置する日雇い・野宿労働者が、実は巨人軍長島茂雄の大ファンであり、皇太子妃雅子さんの子供の誕生を喜ばしく思ってしまうという現実に「市民」はどう向き合えばよいのだろうか。
『ソフィアの秋』『1968年グラフィティ バリケードの中の青春』
五木寛之初期短編集『ソフィアの秋』(新潮文庫)を十年ぶりに読み返した。
高校2年生時分に五木寛之にはまっていた時期があった。その当時近所の本屋で手に入る本は全て手に入れていた。当時はあまり印象の薄かった作品であるが、今読み返してみて、主人公に共感する部分が多かった。恐らくこれから10年後に読んでもピンとこない作品であろう。
この本に収められている作品の主人公は学生時代に「血のメーデー事件」等に関わった結果、まともに就職できないまま30代を迎えてしまったという負い目を抱えている。それがひょんな出会いから過去の高揚を商業的に利用しようとする機会を得るのだ。主人公は「ゼンガクレン」の闘士を装ったり、左翼的ジャーナリストの肩書きを利用したりして、パリ5月革命の現場やブルガリアの農村に出向く。そこには過去の運動への回顧、若さへの希求、高度化された資本主義に対するしっぺ返し等々のテーマが読み取れる。しかしそれ以上にこの本が1969年に刊行されたということの意味の方が大きい。
今私の手元に『1968年グラフィティ バリケードの中の青春』(毎日新聞社)という大きな本がある。ページをめくると、3億円事件、ベトナム戦争、東大日大紛争、金嬉老事件、サルトル来日、ケネディとキング牧師の暗殺などの記事が続く。世界がくるっと変わったかもしれない事件が相次いだ年だ。社会は若者の力によって変わっていく。しかし30代を迎えた人間は過去の思い出に縛られて人生を変えていくことができない。時代状況を考えるに、この作品は中年に差し掛かっていく青年の終わりを悲観的に描きながら、逆説的に若者の変革の力を浮かび上がらせていたのではないか。
