『ソフィアの秋』『1968年グラフィティ バリケードの中の青春』

五木寛之初期短編集『ソフィアの秋』(新潮文庫)を十年ぶりに読み返した。
高校2年生時分に五木寛之にはまっていた時期があった。その当時近所の本屋で手に入る本は全て手に入れていた。当時はあまり印象の薄かった作品であるが、今読み返してみて、主人公に共感する部分が多かった。恐らくこれから10年後に読んでもピンとこない作品であろう。
この本に収められている作品の主人公は学生時代に「血のメーデー事件」等に関わった結果、まともに就職できないまま30代を迎えてしまったという負い目を抱えている。それがひょんな出会いから過去の高揚を商業的に利用しようとする機会を得るのだ。主人公は「ゼンガクレン」の闘士を装ったり、左翼的ジャーナリストの肩書きを利用したりして、パリ5月革命の現場やブルガリアの農村に出向く。そこには過去の運動への回顧、若さへの希求、高度化された資本主義に対するしっぺ返し等々のテーマが読み取れる。しかしそれ以上にこの本が1969年に刊行されたということの意味の方が大きい。

今私の手元に『1968年グラフィティ バリケードの中の青春』(毎日新聞社)という大きな本がある。ページをめくると、3億円事件、ベトナム戦争、東大日大紛争、金嬉老事件、サルトル来日、ケネディとキング牧師の暗殺などの記事が続く。世界がくるっと変わったかもしれない事件が相次いだ年だ。社会は若者の力によって変わっていく。しかし30代を迎えた人間は過去の思い出に縛られて人生を変えていくことができない。時代状況を考えるに、この作品は中年に差し掛かっていく青年の終わりを悲観的に描きながら、逆説的に若者の変革の力を浮かび上がらせていたのではないか。

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