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『知のハルマゲドン』

小林よしのり・浅羽通明『知のハルマゲドン』(徳間書店)を読む。
「ゴーマニスト」である小林よしのりよりも、浅羽通明の本として読んだ。1995年発行の本であり、まだ小林よしのり氏が「新しい歴史」グループに加担する前の、差別論やオウム真理教問題が論の中心で「なるほど」と思いながら読んだ。ここで小林よしのり氏の言い分は、反保守・反大衆的立場を貫いており分かりやすい。しかし浅羽氏がどのようなポジションに位置しているのか不明であった。彼はオウム真理教を巡る大衆について次のように言い切る。

しかも、それでも悟れない、救われない者もいる。それが前近代の知恵の厳しい現実なのです。だから、昔の人はダメな奴はダメなりの生き方をしたほうが幸せだという身分社会を封建主義から導き出した。私たちは、前近代の思想や宗教のそういう残酷な面を直視してこなかった。近代合理主義の現世的能力主義のシビアさは嫌、かといって前近代の身分制社会も嫌で、民主主義だけは近代の知恵を温存しておく。単なるご都合主義ですよ。

しかし一方で彼は次のようにも語る。

差別表現について、誰にも人を差別する権利はないという言い方がよくなされます。これはまるで「権利」という言葉を、ほとんど倫理的な正しさという意味で用いている。しかし本来、権利には倫理的ニュアンスはない。国家権力がそれについては我関せずの態度を採ると約束した国民の行為が、すなわち表現の自由に代表される自由権なわけですよ。だから国家権力により規制を認めるかどうかが、真の意味での権利があるかないかの問題なのです。そして国家権力は、他人の権利と明らかに衝突する権利行使についてのみ、名誉棄損罪とか侮辱罪を設けて取り締まっているわけです。ですから、憲法上の権利という場合、これらの罪とならないかぎり、差別的表現を含めてあらゆる表現が権利として認められるとするのが原則なのです。

では人権思想そのものを否定する言論とかー差別的な表現をこれに含める人は多いでしょうがーは、野放しなのかというと、それは法的権利の問題ではないんです。「言論の自由市場」という言葉がありますが、法的には一切の言論を解禁したうえで、不当な言論はあくまで言論によって叩き放逐していくべきだというのが、私の基本的な考え方です。(中略)しかし、私は人間性悪説のところがあるから、差別は完全にはなくならないだろうという思いもまたある。その時でも自分自身の悪を知るために、やはり表現の自由を全解禁する。すなわち差別的な言論、汚い言論を封じるのではなく、言論を全解禁したうえで、そのような表現をした作家を侮蔑すればいい。品性の名の下に差別すればよい。

私自身大学に入る前に、浅羽通明著『ニセ学生マニュアル』(徳間書店)を読んでいた経験がある。そのためか、自分の持っている断片化された知識と知識をある別の観点からつなげられると、ある種の快感を感じることは否定できない。
戦後民主主義と平等悪はこのように結びつけられるのか!
大衆化社会と差別はこのような関係にあるのか!
権力構造はこうだったのか!
など知識偏重の大学受験を経験してきた者にビビッとくる刺激である。数学的にロジックをこねくり回しているだけであるのに、妙に「なるほど」とうなずいてしまう私自身の思考力の弱さをひしひしと感じた。

『パラサイトイブ』

瀬名英明『パラサイトイブ』(角川書店)を読む。
だいぶ発売から時間が経ってしまった本だが、楽しく読むことができた。
中学高校の生物の授業では脇役的な存在であったミトコンドリアという基質が、実は思考を有していたというところから話は展開される。専門用語の羅列が続く個所も多く見受けられたが、すんなり読み進めていくことができた。
作中、登場人物である吉住医師をして臓器移植に賛成的な発言を行なっているが、臓器移植法が成立した現在だからこそ、もう一度成立前の議論を振り返る必要があるかもしれない。

『都の子』

江國香織のエッセイ集『都の子』(集英社文庫)を3分の1だけ読んでやめた。
本の表紙には「繊細な五感と、幼子のようにみずみずしい感性が、眩しく、切ない」と謳われているが、単なる記号的「差異」に執着する消費者意識をリアルに解説したにすぎない。スイカシェイクが好きだの新宿からのリムジンバスが快適だの、実家の和箪笥に懐かしさを感じるだのと、だらだら話は続いていく。

『テロリストのパラソル』

現在の東京での生活において、花粉症はすっかり季語になってしまった。これからさらにひどくなるのかと思うと憂鬱だ。恥ずかしながら昨日からずっとどこへもでかけず本ばかり読んでいる。「晴耕雨読」ならぬ、「晴耕花粉読」になっている。別に農業を生業にしてはいないが…

直木賞受賞作である藤原伊織『テロリストのパラソル』(講談社)を読む。
先月新宿中央公園で起きた爆発事件との類似が指摘された作品だ。東大全共闘当時の友人関係のもつれが事件の底流を流れていたというものだ。1971年頃の全共闘ブームの終焉と1990年代のバブル経済後の社会がうまく結びつけられていて最後まで読者を飽きさせない工夫がなされている。
しかし作者自身が1948年生まれの東大仏文科卒ということだが、69年当時対する甘酸っぱい郷愁に留まってしまって、単なる見せ場の多い推理小説に終わってしまっているのが残念だ。