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『新左翼とロスジェネ』

鈴木英生『新左翼とロスジェネ』(集英社新書 2009)を読む。
ふとしたことがきっかけで、今後2010年代以降の学生運動が気になって手に取ってみた。著者自身が関わった『蟹工船』のブームから、戦後の学生運動を左翼文学を題材に時系列的に論じながら、「今の社会で必要な連帯へのきっかけなるものを提示する」内容となっている。50年代前半の共産党暴力革命路線から60年安保闘争、全共闘運動、そして浅間山荘事件以降の「全共闘的」なものの拡散までが分かりやすく展開されている。

ここ最近、市民運動、とりわけ自然環境運動は震災をきっかけに一部で大きな広がりを見せている。しかし、層としての「学生」がほぼ解体され尽くした中で、学生という共同性をベースにした、学生自身による運動は内実ともに難しくなる一方であるように思う。

著者の鈴木氏は現在毎日新聞学芸部の記者である。1997年の夏だったか、京都大学の学生運動の様子を伺いに京都大学の3つの寮を見学に行った際、当時地塩寮の住人であった著者が豪快に焼き肉を食べる姿を目の当たりにしたことがある。彼の笑いを交えた運動を語る姿に、京都全体の明るさと強さを感じていた記憶がまだ頭の片隅に残っている。

著書自身が自治活動を経験しているためか、本書でも戦後の学生運動の基調を「自分探し」と肯定的に捉え、湯浅誠氏の反貧困運動まで一つの系譜として繋げている。そして、著者は、全共闘がたどり着いてしまった「行き過ぎた自己否定」ではなく、「適度な自己否定」こそが、他者との互恵的な関わり合いを生み、自分も他者も存在を認め合う「居場所」作りにつながると述べる。希望に満ちた文章だったので、終章から一部だけ引用してみたい。本書の最後は、戦後の新左翼の学生運動の分析に留まらず、湯浅誠氏の著書に依拠しながら、今現在に必要な運動に対する前向きな考え方を述べている。是非手に取って読んでもらい文章である。

60年安保のブントや70年代以降の京大ノンセクトがそうだったように、新左翼が、ある瞬間はいわば「シラケつつ(断固として)ノル」意識で運動の大枠を作ったと見られることを(中略)想起したい。

そんな「シラケつつ(断固として)ノル」意識がもし現実に一瞬でもありえたのならば、その意識を運動、あるいは自分から少し心理的、物理的に遠い人との関係に押し広げることはできないだろうか。一部の人が全身全霊を傾ける決意主義も完全には否定しえないかもしれないが、(中略)無数で無名の小さな取り組みが、全体で一つの方向性を形作るような、人同士のかかわりがあってもいいはずだと、つい「夢想」してしまう。

それはいわば、組織ならざる組織、徹底して自己否定の度合いを深め続けるのでも、正面切った闘争やテロを仕掛けるのでもない、「適度」な自己否定に支えられた、ちょっとした行動、そして偽善や自己欺瞞に陥らない「小さな親切」の積み重ねでもある。

たとえば、『僕って何』の「僕」が、初めてデモしたときの、「気持ちの昂ぶり」を失いたくないと思い、「人間的なつながり」を求めて新左翼界隈をさまよったような、そんな力無い感じでいいのかもしれない。「自分探し」の過程には、誰しも他者との小さなひっかかりを見つける場面や、人の優しさに触れられる瞬間があるはずだ。そこには同時に、「自己否定」、つまり優しさを人に返そうと思うきっかけもあるはずだ。

そして、この「自己否定」に行き当たったとき、「左翼のどこが間違っているのか?」の「ぼく」のように、自己否定を徹底できない「左翼」の半端さを拒絶・否定するよりも、自分の少しの「自己否定」的な行動で、世界が少しだけ変わるかもしれないということに、積極的な意味を持たせられないか。それはひょっとしたら、「ぼく」が、自室から外へ出るきっかけにもならないだろうか。
今であれば、貧困を問題化するにしても、直接的なデモや団体交渉に参加するだけでなく、誰かへのちょっとした手助けをするだけでいい。それが、明らかに貧困問題の解決の助けになると信じられる、そういう枠組みを「夢想」できないか。こうしたちょっとの積み重ねへの道筋となる信頼感であったり、場所であったりが、表面上は社会から失われてしまったことにこそ、現代の最大の問題もあるのだが。

(中略)(中流意識の高まりによる)均質化は、学生層にも及んだ。たとえば全共闘のころ、それまでなら高尚な「教養書」を読むはずだった大学生が、他の若者や子供と同じく漫画を読むようになり、話題となったという。他方、「教養」に支えられた「層としての学生」という自意識は失われた。
ともあれ、ポイントは、均質化が共同体的な人と人と関係を商品経済と置き換えるかたちで実現されたことにある。社会は、さまざまな階層が作る共同性の積み重ねではなく、購買力の総和になってしまったのだ。購買力以外で個々人の力を肯定する場が失われたといういい方もできると思う。

(中略)全共闘の先駆けの一つが、学生会館の自主管理要求運動だったことも思い出されよう。この運動は、自分たちの居場所を物理的に確保することで新しい共同性を生み出し、均質化に抵抗しようとしたと理解できる。

(中略)京大同学会や同志社大学友会をはじめ、70年代を生き延びたノンセクト学生運動は、寮や学生会館など全共闘以後も残った自主管理空間を基盤にして、そこから学外の少数者の運動と結びついたことも特記しておきたい。今のフリーター労働運動や反グローバリズム運動関係者の一部も、これらノンセクト運動などの周辺から育ったようだ。

(中略)とうの昔に失速した従来の共同性に基づいた「居場所」作りには、限界があろう。その意味でも、自分たちの外部と結びつき、従来とは違う共同性を生み出そうとした新左翼の歴史は、この新しい「連帯」を描く際に参照する価値がある。

『耳で考える:脳は名曲を欲する』

養老孟司・久石譲『耳で考える:脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21 2009)を読む。
解剖者の養老氏と、日本を代表する音楽家の久石氏の二人が、聴くという行為や名曲の定義、感性や意識について議論を交わしている。久石氏の質問に対して養老氏が脳科学の立場から説明を加えるという形が多いのだが、久石氏も論理的に音楽を構築する主義なので、上手く議論が噛み合っている。

話の中で、久石氏が映像と音楽を合わせるために、映像からコンマ数秒音楽を遅らせるという談話があった。映像の方が目に届く時間は早いのに、音楽の方に早く人間の意識が向いてしまうということである。そのような調整があってこその映画音楽なのだと改めて感心した。

『就活のバカヤロー:企業・大学・学生が演じる茶番劇』

石渡嶺司・大沢仁『就活のバカヤロー:企業・大学・学生が演じる茶番劇』(光文社新書 2008)を読む。
年々早期化、マニュアル化している就活を、学生、大学だけでなく、採用する企業、そしてそれらを仕掛ける就職情報会社の4つのファクターから論じている。

『NHKまんがで読む古典 源氏物語』

鳥羽笙子『NHKまんがで読む古典 源氏物語』(角川書店 1991)を読む。
教材研究の一助として手に取ってみた。80年代の少女漫画風のタッチで、「夕顔」「六条御息所」「紫の上」「末摘花」「朧月夜」の5人の女性が描かれる。省略も多く、話の内容よりも雰囲気を味わうような作品であった。

『マリッジ・セックス』

亀山香苗『マリッジ・セックス』(新潮社 2006)を読む。
30代から60代の20組弱の夫婦の性愛についてのインタビュー記事である。
露出プレイやSM、3P、さらには、スワッピングやグループセックスなど、夫婦のアブノーマルな性癖がこれでもかと暴露される。官能小説を読んでいるような興奮すら感じる内容である。

しかし、何十年と結婚生活を過ごすと、どうしても夫婦関係はマンネリ化したりギクシャクしたりしてしまう。また得てして夫婦の生活も遠のいてしまう。そうした時に、セックスが愛情の確認や、単調な生活の良い変化となると著者は述べる。また、夫婦相互の理解が不足している場合は、SMやスワッピングなど、肉体的な感覚や嫉妬感情を通して夫婦の絆が生まれる点などを指摘している。
個人的には、次の一節が印象に残ったので引用してみたい。

スワッピングをしている人たちを見てきて、私個人は、自分がするのはいいとしても、夫が他の女性とするのを見るのは嫌だなあと感じたことがある。女性達は案外、そういう思いを抱いているのではないだろうか。
嫉妬というマイナス感情をうまく愛情に転化できる、と言う男性は少なくない。だから、たとえば3Pなどの場合、男性ふたりのほうがうまくいく、と彼らは言う。女性がふたりだと、どちらも傷つけてはいけないという配慮をしているだけで萎えてしまうそうだ。自分が嫉妬している分には、その感情をうまくコントロールできるが、女性の嫉妬のありようを想像したり受け止めたりするのはむずかしいのだろう。
女性は基本的には受け身だから、男性がうまく雰囲気に乗せてくれれば、男性ふたりだろうが、乱交だろうが、自意識も気遣いも飛ばして自分の快楽に浸れるのではないだろうか。ところが、自分が嫉妬する側に回ると、それを他の感情に転化はできない。