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『デジカメだからできる ビジネス写真入門』

田中長徳『デジカメだからできる ビジネス写真入門』(岩波アクティブ新書 2002)を読む。
今から10年前の本であるが、当時画素数をどんどん増やし、日常の使用では銀塩カメラと大差ないほど性能が上がってきたデジカメの特徴と、その特性を生かしたビジネス現場での撮影術が述べられている。立体的な商品の撮り方や、モノを大きく見せる方法や建物の撮影法など、素人が読んですぐに分かる内容が読みやすい文体で綴られている。
本題とはあまり関係がないが、ふと「あ〜、なるほど」と思う文章があったので引用してみたい。

 よくデジカメ雑誌のレポーターが書いている、あまりにも病的なほどのデジカメの色の再現能力、特に色調に関する「純文学的とも言えるほどの記述」を、私は自分が信用しないもののひとつとしています。

確かに、テレビ等の映像機器も、解像度などの数字だけのスペックでは表現しきれない色や音の説明については、比喩の混じった詩的な表現が多様されている。私などはこれはこれで面白いと思いながら読んでいたのだが、「純文学」とバッサリと切られてしまっては身も蓋もないだろう。

『LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)』

上野一彦『LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)』(講談社+α新書 2003)を読む。
LDとADHDの実態と定義に始まり、正しい理解のありよう、海外での様子、教育現場での付き合い方など、ほぼ全部網羅した内容となっている。著者自身がLD学会の会長であり、東京学芸大学の副学長を務めていることから、小中学校の先生向けの入門書という性格が強い。そのため、著者自身の経験や失敗ではなく、海外での実践例や医学的な見地から、正しい理解・教育を提言するという内容となっている。
ただし、著者は「子どもの能力は皆同じ」とした徹底した「平等教育」では、逆にLDやADHDの子どもたちの弱点にばかり注目が集まってしまい、いつまでも彼らの特異な能力を生かせるような教育・社会は望めないという立場をとる。

現代は高度な管理と、そこに収まりきらない独創性のせめぎあう時代ともいわれる。相当なバランス感覚を要するはずの政治家も、はたまたノーベル賞を受けるような優秀な研究者でも、「変人」という言葉が、むしろこれまでの人々にはないスタイルの持ち主として、ある種の期待を込めて使われる。
「起業家コース」という新しい発想で作られた大学院の教授はこう語る。
 「起業家のように創造性があり、チャレンジ精神に富んだ人材は元来個性的で、画一的な教育の枠のなかには収まりきらない。特に、差別につながるという理由で徒競走の順位付けをなくすような、今の日本の悪平等教育のなかでは、そうした才能は伸ばせない」
ADHDやLDといった特徴ある能力を個性として認める、自由でしなやかな社会こそが、明日のやさしさと創造性をもつ社会への道かもしれない。

また、学校での指導においての留意点について次のように述べる。

本人への(LDに関する)説明や告知と同時に、周囲への子どもへの理解の指導も大切である。LDやADHDの子どもがもつバランスの悪さは、周りの子どもには不思議な存在として目に映りやすい。彼らLDやADHDへの理解というのは同情や特別な支援ばかりではなく、できることは自分たちと同様に、あるいは優れた能力を示すこともあるということを伝えることである。どうしても同じ仲間を求めたがる年齢であるので、「みんな仲よくしましょう」といった形式的・表面的な仲間意識ではなく、ひとりひとりの個性や特徴を認め、伸ばすことの大切さを教師自らが実践しモデルを示すことがもっとも効果的である。

私を含め、古い教員の一部には、教員の目線でLDやADHDといった生徒を「世話」をすべき「同情」すべき対象として捉えることが「進歩的」であるという間違った錯覚を持ってしまいがちである。重々に反省したい。

『大人の写真。子供の写真。』

新倉万造×中田燦『大人の写真。子供の写真。』(枻出版社 2006)を読む。
50歳を過ぎた写真家の新倉氏と、新倉氏の友人の娘で、小学校入学前の6歳の中田燦ちゃんの二人がカメラを手に、市場や動物園、奄美大島を回るという企画ものである。二人の写真が見開きページに並んで掲載されており、大人と子どもの写真の違い、引いては大人と子どもの感性の違いが描かれている。何気ない風景ばかりなのだが、技巧を凝らそうとする大人と、ありのままを撮ろうとする子どもの目線の違いがはっきりと出ていて面白かった。

『へそまがり写真術』

柳沢保正『へそまがり写真術』(ちくま新書 2001)を4分の3ほど読む。
元朝日新聞の記者であった著者が、新聞報道における一瞬の緊張感や、露光についての蘊蓄、コンタックスとライカの違いなどについて奔放に語る。前半こそ、当時の報道のありようが伺えて興味深かったが、後半に入るとアナクロなカメラについての思い出やこだわりがくどくどと続いていき、途中で読むのをやめてしまった。新書の分量を揃えるために、後半3分の1ほど無理矢理ページを継ぎ足したような展開になっており、編集サイドの失敗が露呈したような内容であった。